written by みちこ
車は音もなく停まった。
「さあ、マヤさん、こちらがあの方の別荘ですよ」
「ここが……」
マヤは聖がドアを開けてくれるのを待つことなく車外に出た。目の前の瀟洒な建物にまた真澄との差を感じて少し気後れしたが、ふと、髪をなぶる風に乗って届いた潮の香りに気づくと振り返り、今乗って来た車と、運転席側に立つ聖の後方に、青い海が果てしなく広がっているのを感慨深く見つめた。
あの日、真澄とともに眺めた場所に立ち、今度は反対側から眺めている不思議。いくつか小さく見えている船の中にあの時のクルーズ船はないだろうが、海の匂い、そして優しい潮風を頬に受けて、あの夢のような船上の出来事は確かにあったのだと、マヤはようやく信じることができた気がした。
聖はマヤの視線の意味を理解し、それを遮らないよう車の後部を回ってマヤのそばまで来た。
「マヤさん、そろそろ中へ入りましょうか。あの方がお待ちかねですよ」
「あ、はい」
聖はマヤを誘導したが、玄関ドアを開けるとその場で「すぐそこのドアがリビングです。そこであの方がお待ちです」と言った。
「え? 聖さんは……」
「わたくしがご案内するのはここまでです。どうぞ、ふたりきりでごゆっくりお過ごしくださいませ」
聖はそっとマヤの背中を押して中へと促した。
マヤは背後でドアが閉まると緊張した足取りでリビングへと進んだ。ドアの向こうで待つ人が真澄だと知ってはいるが、今日はあくまで紫のバラの人として招いてくれたのだろうから、真澄の顔を見た時どんな態度を取ればいいのか、まったく思いつかなかった。それでも二週間ぶりに会える嬉しさに、マヤはノックをする手が震えるのを止めることができなかった。
「どうぞ」
ドアの向こうから声がした。
(ああ……)
間違いなく真澄の声だった。
もしかしたら、紫のバラの人とは全くの別人なのではないか、あるいは真澄だったとしても何か急な用事で来られず、ここには誰もいないのではないかなどと色々な不安が今朝からずっと頭の中で渦巻いていたが、今聞こえた声は決して空耳でも幻聴でもなく、真澄自身の声だった。
マヤは思い切ってドアを開けた。
こちらに背を向けてソファに座っていた人物が立ち上がり振り向いた時、マヤの目から喜びの涙が溢れ出した。
「マヤ、おれが……紫のバラの人、だ」
「あ……」
マヤは言葉をなくした。
喜びと、今までの感謝と、抱えきれないほどの愛情を全てぶつけるようにして真澄の胸に飛び込んだ。
「マヤ、よく来てくれたな」
「会いたかった、紫のバラの人に。そして速水さん、あなたに……」
「以前から知っていたのか? おれが紫のバラの人だと」
「はい」
「そうか。船の上では迂闊にも気づかなかったが、その後落ち着いて考えたらもしかしてマヤは気づいているのかもしれないと思った。以前、歩道橋から落ちたバラに君が口づけた時、黒沼さんにマヤは紫のバラの人に恋をしていると言われたからな」
「えっ? あの時? 速水さん、来てくれていたの?」
「ああ。まあとにかく積もる話はあとだ。とりあえずコーヒーでも淹れよう。マヤ、座って」
そう言って真澄はマヤにソファをすすめた。
慣れた手つきでコーヒーを淹れると、真澄はマヤの向かいのソファに座った。そして少しあらたまった様子で話を切り出した。
「マヤ、まずは紫のバラの人として、君に謝らなければならないことがある」
「え?」
「船の上でも少し話したが、ここはおれの隠れ家で、用があって管理人や聖を呼ぶことはあっても、誰かを招待、まして女性を招き入れることはなかった」
「あ……速水さん、あたしわかってますよ。紫織さんが“例外”だったってことでしょう? そのことは別に……」
「違う、そうじゃない。確かに紫織さんのことだが、“例外”というのは、“彼女は特別”という意味ではなくて、招待どころかここの存在を話したこともないのに勝手にやって来た、ということだ。そして、その後おれの本当の気持ちを薄々感じ始めると彼女は……」
真澄は苦しそうに顔を歪め、悔恨の情を滲ませながらマヤに詫びた。
「おれに黙ってここに入り込み、君が贈ってくれた舞台アルバムを……。大切な思い出であり、君の成長記録でもあるあのアルバムを見つけ、ズタズタにして君に送りつけてしまった……」
「紫織さんが……」
「マヤ、本当に申し訳なかった。何もかもおれのせいだ」
真澄はソファに座ったままではあったが頭を下げ、心の底から謝罪した。
マヤはそんな真澄の姿をじっと見つめていたが、やがて穏やかな口調で言った。
「速水さん、頭を上げてください。あたし、もちろんあのアルバムが届けられた時はすごくショックで、指輪やウェディングドレスのことで速水さんに見限られたんだって思ってすごく悲しかったです。でも、そのあと……あの駐車場で速水さんが命がけで暴漢から守ってくれた時に、ああ、速水さんじゃないって、速水さんはあんなことしないってわかりました。アルバムは残念だけど、でも、紫織さんの立場からすれば仕方ないことなのかもしれないし……。だからいいんです。気にしないでください」
「マヤ……ありがとう。聖から聞いたよ。君は聖に言ってくれたそうだな。信じている……と。嬉しかったよ。本当に嬉しかった」
マヤは照れたように笑いながら静かにうなずいた。
その後、真澄は立ち上がると「ちょっと待っていてくれ、すぐ戻る」と言ってリビングを出て行った。そしてその言葉の通りすぐ戻って来たのだが、その時真澄の腕には紫のバラの花束が抱えられていた。
「……!」
マヤは息を呑んだ。
どんなにこの時を待ち焦がれたことだろう。紅天女になればもしかしたら、とは思っていたが、こんなにも早く紫のバラを抱えた真澄の姿を現実に見ることができるとは、あのクルーズの一夜があったとはいえ、思ってもみないことだった。
感激のあまり言葉をなくすマヤの前で真澄は跪いた。
「マヤ」
真澄は腕の中の花束をマヤに差し出した。その花束は、今まで真澄が贈ってきた花束の中ではバラの本数も少なめで、ラッピングもごくシンプルなものだった。だが、それだけにバラ本来の美しさが際立っていた。
「マヤ、このバラは、今までおれが紫のバラの人として、そして冷血漢の速水真澄として君を陰から見守り続けた七年間を象徴する七本のバラだ。そして……」
その時、マヤは初めて真澄の手にもうひとつ、たった一本だけラッピングされたバラがあることに気づいた。真澄はそのバラを手にしたまま告げた。
「このバラは、おれが紫のバラの人ではなく、大都芸能社長の速水真澄でもなく、ただひとりの男として、君の魂のかたわれの速水真澄として贈る、初めての紫のバラだ。これから毎年、この日に君にバラを贈る。今年は一本、来年は二本再来年は三本……。そしてその後も、君がその手に抱えきれなくなっても、ずっとずっと永遠におれは君にこのバラを贈り続けたい。マヤ、受け取ってくれるか?」
真澄の言葉を途中から、マヤは両手で口を押さえ嗚咽を堪えながら聞いていた。
そして差し出されたバラにおずおずと手を伸ばし、受け取ると同時に真澄の首に両腕を回し抱きついた。
真澄がしっかりとマヤの身体を受け止めふたりは固く抱きしめ合った。
「速水さん! 速水さん……速水さん!!」
マヤは真澄の名を繰り返し呼ぶことしかできなかった。
そしてマヤはこの時、このところずっと燻り続けていた心の迷いがようやく晴れた。こんな風に自分を、紫織に比べて何も持たない自分を選んでくれた真澄。真摯な態度で、少年のように純粋に、緊張と少し不安も見え隠れするその瞳で……。
頭の良い真澄のことだから、その決断がこの先真澄自身の身にどんな影響を及ぼすのか、わからないはずがない。にもかかわらず、真澄は自分を選んでくれたのだ。永遠に一緒にいると言ってくれたのだ。
真澄のため、というもっともらしい理由を付けて、先の見えない暗闇から逃げるのは簡単だ。
だが……卑怯だ。
真澄と一緒に歩いて行こう。たとえそれがどんなにつらい道でも。真澄が求めてくれる限り、いつでもこの身を捧げよう。
(それが、あたしの……愛)
マヤは真澄の胸に抱かれながら、心の中で何度も何度も(愛してる……)と繰り返した。
その夜……
ふたりはテラスで寄り添い星を眺めた。口数は少なかったが、すっきりと澄み渡った夜空に輝く満天の星は、ふたりの心を十分に満たした。
やがて、水平線の向こうに下弦の月が姿を現す頃、真澄とマヤは初めて身も心もひとつになった。
2011/02/24(木)
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