written by みちこ
illustrated by マコ





白百合荘を出て、運転手がドアを開けて待っている後部座席に腰を落ち着けた紫織は、車が動き出すと同時に「大都芸能へ行って頂戴」と命じた。そしてゆっくりと背もたれに身体を預けた。
ここ二週間ほどよく眠れていない。ただでさえ丈夫ではない身体に寝不足はきつく、今も頭痛がする。過度な使用は避けたいと思いながら睡眠薬を処方してもらうこともあった。だが、薬の力でその時だけ深く眠っても、目覚めた時に何も変わっていない状況に苛立ち、また眠れなくなる。
顔色は悪く、どれだけ高級な化粧品を使っても、そろそろ肌の疲れを隠せなくなってきた。ただ、紫織のまなざしだけはこの二週間、異様な光を放ち続けていた。

紫織は目を閉じた。本当は閉じたくはないのだ。なぜなら、目を閉じると瞼の裏にあの二週間前の出来事が昨日のことのように鮮やかに甦るからーー

二週間前のあの日……



真澄が出て行った後の応接室でひとり立ち尽くしていた紫織は、室内履きの上から何かが当たったのを感じ、視線をゆっくりと下げた。

足元には薔薇の花が描かれた繊細な形のティーカップ。
真澄に紅茶をぶちまけたあと、そのまま指に引っかかっていたものがスルリと抜け落ちたのだろう。毛足の長いラグの上に落ちたので割れることもなく静かに横たわっていた。

何ということをしてしまったのか……。
あろう事か婚約者に、あの真澄にお茶をかけるなんて。
自分の中にこんな激情があるなんて、思いもしなかった。

紫織は、はたしてその行動を後悔しているのかそうでないのか、自分の感情を計りかねていた。

腰を屈めて落ちたティーカップに手を伸ばした時、応接室のドアが開いた。

「紫織」

祖父だった。紫織は咄嗟に背を向け、頬の涙を拭った。そんなことでごまかせるとは思えなかったが、このような醜態を祖父に知られたくなかった。

「ご、ごめんなさい、お祖父さま。真澄さまはお祖父さまにご挨拶と謝罪をと仰っておられたのですけれど、急な用件で……」
「紫織、座りなさい」

紫織の言葉を遮り、鷹宮翁は紫織の向かいにどっしりと腰を下ろした。
紫織は言われるままソファに浅く腰掛け、祖父の言葉を待った。

「紫織、残念だが、あの男との結婚は止めにしなさい」

紫織は突然のことに言葉も出なかった。ただ、大きく目を見開いて祖父の顔を見つめるだけだった。

どのくらいの時間が経ったのか、いや、ほんの数秒だったのかもしれないが、紫織の瞳から涙が一粒こぼれ落ちた時、ようやく薄く開いた口からかすれた声が漏れ聞こえた。

「おじい……さま、今……なんて……」
「あの男にお前をやるわけにはいかないと言ったのだ」
「そんな……」
「元々この鷹宮と釣り合うような身分ではないのだ。速水英介自身も成り上がり者で、しかも速水真澄は奴の本当の息子ではない。家政婦の連れ子だ。それでも、多少ビジネスの才があるということと、お前がえらく気に入っておったから許可もしたが、先ほどのあの態度。可愛いお前が苦労するのは目に見えておる。お前にはわしがもっと相応しい男を見つけてやる。もっとお前を大切にしてくれる男をな」
「いやです、お祖父さま! お願いです、婚約はこのまま……」
「紫織、これはもう決めたことだ。今は納得いかずとも、きっと近い将来お前はわしのこの判断に感謝するだろう。大丈夫だ。今回の婚約破棄程度でお前に傷は付かん。全てわしに任せて、お前は安心して休んでいれば良い」

そう言って応接室を出て行った祖父を紫織は慌てて追うように立ち上がったが、ドアは非情な音を立てて閉まり、紫織はその場に泣き崩れた。

「いや! いやよっ! わたくしは真澄さまと……ああっ……!!」

叫ぶ紫織の声に滝川が慌てて駆けつけ、紫織を抱きかかえるように自室へと連れて行った。



あれから紫織の心は、真澄を失うかもしれないという絶望の前で、徐々にマヤへの憎しみの感情に支配されつつあった。
その後、「真澄ともっとじっくり話がしたい。その結果、自分も納得できれば言いつけ通り婚約は解消する。だからもう少しだけ時間が欲しい」と祖父に泣きついて説得し、速水家への破談の申し入れはなんとか先送りできた。
だがもうそれほど時間がない。
紫織は焦っていた。それでも、先ほどのマヤの様子は紫織に少し安心をもたらした。あんな粗末な所で家族もなく、演劇への情熱だけで生きているような娘が、自分や真澄が住む世界の大きさを知ったら萎縮しないわけがないのだ。今は浮かれているかもしれないが、その後現実を知り、じきにあの娘は身を引くだろう。あとは……。

「お嬢さま、まもなく到着いたします」

紫織は目を開けた。前方に大都芸能の社屋が見えて来た。

「真澄さま……あなたは、わたくしのものです。誰にも……誰にも渡しませんわ」

紫織は最上階に灯るあかりを見つめながら小さくつぶやいた。


黒背景用



「あの方……」

マヤは一瞬、混乱した。
そうだった。船の上で気持ちが通じ合えたことが嬉しくてすっかり忘れていた。
マヤはすでに紫のバラの正体を知り、冷血漢の仮面の裏に隠された真澄の本当の姿を知り、そして先日のクルーズ船での一夜で、紫のバラはただ一ファンとしての援助というだけでなく、ましてやマヤが紅天女の上演権を獲得した場合の策略でもなく、女優としての、そして一個人としての北島マヤへの純粋な愛だったのだと勝手に信じてしまっていた。だが……真澄はまだ、マヤに紫のバラのことは何ひとつ明かしてくれてはいないのだった。

『マヤさん? どうかされましたか? マヤさん?』

携帯電話の向こうで聖の心配そうな声が響き、ようやくマヤは我に返った。

「は、はい! ごめんなさいっ。大丈夫です! 明日、大丈夫です」
『そうですか。では、明朝八時にお迎えに上がります。よろしいですか?』
「はい。八時ですね。わかりました。お待ちしています」
『マヤさん』
「はい?」
『何か、変わったことや心配なことはございませんか?』
「え? あ……いいえ。何も、ありません」
『……そうですか。では明日。今夜はゆっくりおやすみください』
「はい……おやすみなさい」

マヤは携帯を閉じると大きく息を吐いた。
明日、紫のバラの人に……真澄に会える。
この二週間、会いたくて会いたくて声を聴きたくて、でもずっとメールで我慢していた。だけど、ようやく……。

先ほど紫織と会って、あらためて自分と真澄の住む世界の違いを思い知らされた。
真澄のために、自分がどう行動するのが一番良いのか、まだわからない。
愛しているからこそ、身を引くべきなのか……。
でも、でも、こんなにも真澄が恋しい。
真澄と離れることになったら自分はどうなってしまうのか想像もつかない。

「マヤ、ほら、もう寝た方がいいよ。明日、出かけるんだろう?」
「麗……」

マヤの様子でなんとなく事情を察した麗が声を掛けた。
マヤは、今はとにかく紫のバラの人に会うことだけを楽しみに、他のことは考えないで眠ろうと、麗が敷いてくれた布団に潜り込んで目を閉じた。


黒背景用



聖から、マヤと明日の約束を無事取りつけたとの報告を受けた真澄は、ようやく少しほっとして再び夜空を眺めていた。

(明日、星は見えるだろうか……)

早く会いたい。会って、マヤの不安をすべて取り除いてやりたい。
マヤを愛していると、おれを信じてくれと、何も怖がるものなどないと伝えたい。
そして……明日こそ紫のバラの真実をマヤに打ち明けようと真澄は決心していた。

「マヤ……」

真澄がそうつぶやいたとき、社長室にノックの音が響いた。
秘書は一時間ほど前にすでに退社している。こんな時間に社長室に用がある者などいないはずだが……。

「誰だ」

少し身構えるような口調で真澄が答えると、カチャリと音がしてドアがゆっくりと開き、訪問者が姿を現した。

「紫織さん!?」

真澄は驚いた。つい先ほど聖から、マヤの元へ訪れたという報告を聞いたばかりということもあるが、それよりも紫織のその姿に驚かされた。最後に会った時、すでに病み始めているとは思ったが、これほどまでに人は変わってしまうものなのか……。
口元に笑みを浮かべてはいるが、それは紫織の狂気を隠すのにまったく役に立ってはいなかった。

「こんな時間までお仕事だなんて、相変わらずお忙しいのですね、真澄さま」

静かにドアを閉め、その場に立ったまま紫織は言った。

「なぜあなたがここに。しかもこんな時間に」
「あら、わたくしはあなたの婚約者ですのよ。こんな時間まで忙しく働いていらっしゃる真澄さまを労いに訪れたとしてもおかしくはないでしょう?」

紫織の言葉に真澄は大きくため息を吐いてから言った。

「紫織さん……。残念ですが、もうあなたと僕は婚約関係には戻れないでしょう。よりによってお祖父さまの前であんなことを口走った不実な僕を、お祖父さまはもちろん、ご両親も許すはずがないですからね。確かに、不思議なことに婚約破棄についてまだ何も言われてはおりませんが、それももう時間の問題だと覚悟して、毎晩こうして遅くまで仕事をしているのも、この先大都に与えてしまうであろう損害を最小限にしようと僕なりに頑張っているからなのですよ」
「いいえ。お祖父さまが何と言おうと関係ありません。紫織はもう大人です。自分の結婚相手は自分で決めますわ。紫織はあなたと……真澄さまと結婚します」
「紫織さん、無茶を言わないでください。大人であると仰るならば尚のこと、現実を見つめるべきです。僕と結婚してもあなたは決して幸せにはなれない」
「現実?……ふふっ。そのお言葉、そのまま真澄さまにお返しいたしますわ。ちゃんと現実を見つめれば、あなたはわたくしと結婚するはずですから」
「紫織さん……?」

紫織は真澄のそばまでゆっくりと足を進めた。そして真澄の正面に立つと、そっと左手を、その白くて細い腕を伸ばし、真澄の頬に触れた。
その瞬間、真澄は身体中の血液が全て凍りついたかのような感覚に襲われた。血の気のない冷えた指先、だがそれだけではない。結婚したいと言い張る割りに、少しも伝わって来ない愛情……。紫織の中にあるのは、自分より何ひとつ秀でたものなどないと思っていた女に対する嫉妬、そして初めて味わう屈辱だけなのだ。
真澄は顔をそらし、一歩後ろに下がって紫織の手のひらを避けた。
紫織は赤く彩られた唇を弓のように引きしぼって微笑むと、真澄に言った。

「あの方……真澄さまはあの方をとても愛していらして、そして誰よりも大切に思っていらっしゃる……。だからこそ、真澄さまはわたくしと結婚してくださるはずですわよね?」
「え?」
「だってわたくし……もし真澄さまが結婚してくださらないなんて仰ったら、悲しくて何をするかわかりませんわ。例えば……あの方は毎日お芝居のお稽古に励んでおられて、きっと帰りも遅くなることでしょうね。愛しい恋人は仕事に忙しく会いにも来てくれない。暗い夜道をひとり淋しく帰ることになるのですわ。もしかしたら……」

真澄は青ざめた。

「紫織さん、あなたは何を……。マヤに何をするつもりです!?」
「あら、真澄さまらしくもなく取り乱して……。いやですわ、もちろんわたくしは何もいたしません。ただの例え話ですわ。ただ……わたくしはそんなばかなことを考えてしまうほどあなたをお慕い申し上げていると言いたかったのですわ」
「紫織さん、あなたを裏切ったのは僕です。マヤは関係ない! どうか怒りの矛先は僕に向けてください」
「怒り? いいえ、わたくしは怒りなど感じておりません。真澄さまが予定通りわたくしと結婚してくださればいいことですもの」
「紫織さん……」
「真澄さま……。真澄さまがどうしてもと仰るのでしたら、あの方と、ずっとお付き合いを続けても構いませんのよ。わたくし、そのくらいの度量はあるつもりです。お祖父さまにもお父さまにもそういうご関係の方がいらっしゃいました。でもお祖母さまもお母さまも毅然としておられたわ。わたくしたちが住む世界とはそういうところなのですから紫織も取り乱したりいたしません。それどころか、真澄さまの代わりに先ほどお話ししたようなご心配からあの方を守って差し上げることもできますのよ。それでしたら真澄さまもご安心でしょう。ね、ですから真澄さまはわたくしとの婚約を解消だなんてばかなことを考えなくてよろしいんですのよ?」
「紫織さん、そうじゃない。そうじゃないんですよ!」
「でも、ひとつだけ条件がありますの」

紫織は真澄の言葉などまるで聞いていなかった。
一歩開いた距離をもう一度詰め、両手で真澄の右手をとり、強く握りしめた。

「この手で……わたくしに触れてくださいませ。あの方より先に……紫織をあなたのものにして……」


Forever-5-


そういって紫織は真澄の手を自分の頬に当て、うっとりと目を閉じた。

真澄は愕然とした。
今、目の前にいるのは本当に紫織なのか? 
見合いをした頃の紫織とはまったくの別人だ。
病弱だったせいもあるだろうが、あの頃の紫織は穏やかで控えめで、巨大な権力を持つ家の娘であるにもかかわらず傲った様子もなくたおやかな、まさに令嬢だった。
それが……。

自分のせいなのか。
紫織をここまで追いつめたのは全て自分の優柔不断のせいなのか……。

だが……。

「紫織さん……」

真澄は紫織の手を振りほどくと、深々と頭を下げた。

「申し訳ありません。あなたを……聡明だったあなたをそこまで変えてしまったのは全て僕の責任です。ですが、だからこそ、これ以上僕はあなたに対して心を偽れない。上辺だけを取り繕っても心が満たされることはないと、僕自身の経験で知っているからです。本来あなたはしっかりした方だ。今だって本当はわかっているのでしょう? そんな取引のような関係は決して長続きしない」

紫織は表情をなくした。

「では……あの方がどうなってもよろしいと?」

真澄は顔を上げてきっぱりと言った。

「あなたの持つ、鷹宮というとてつもない力を使えば、なるほど、僕もマヤも到底太刀打ちできません。あなたが今ほのめかしたようなことが実際マヤの身に起きた時に、僕はマヤを守りきれないかもしれない。ですが紫織さん、これだけは覚えていてください。僕とマヤはたとえ巨大な権力で引き裂かれようと決して離れません。心で、魂で強く結びついているのですから。何度も何度も遠回りをしてようやくめぐりあえた魂のかたわれなのです。たとえ、どちらかひとりに……死が、訪れたとしても、それで終わるような、そんな脆い結びつきではありません」

真澄の言葉が耳に入っているのかいないのか、紫織はずっと無表情のまま立っていた。真澄もそんな紫織をただじっと見つめていた。

やがて、紫織の唇が少しずつ震え出し、充血した目にみるみるうちに涙があふれた。だが、先日のように泣き叫ぶわけではなく、ただ静かに頬を濡らしていた。
そして、何も言葉を発しないまま身体の向きを変えると、訪ねて来た時と同じようにゆっくりと歩き出した。真澄が声を掛けたがそれに応えることはせず、少しふらつきながら社長室を出て行った。

紫織の靴音が遠ざかり、やがてまったく聞こえなくなると、真澄の全身からどっと汗が噴き出し、脱力した。そのためバランスを失ってよろけ、真澄は慌てて背後のデスクに片手をついて身体を支えた。
紫織の手前虚勢を張っていたが、マヤの身に何かあるかもしれないなどと、そんな想像をしただけで今にも叫び出しそうだった。

今夜紫織はマヤにもこんな風に脅しをかけたのだろうか?

紫織の行動を見張っていた人間がいると知られるわけにはいかなかったので問いつめたい気持ちをかろうじて抑えてはいたが、真澄は不安に心が潰されそうだった。

マヤ……会いたい……。

マヤの不安を全て取り除いてやりたいと思っていたが、寧ろ自分の方こそマヤに不安を消し去ってもらいたいのだと、真澄は今さらながら自覚した。




2011/02/24(木)
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