written by みくう




「お見舞いに来てくださっていたのに、お会いできなくてごめんなさい」

車椅子に乗った紫織が隣にたつ真澄を見上げた。真澄はゆっくりとかぶりを振る。

「いいえ。追い返されることは百も承知で来ていたんですから。だいぶ顔色もよくなったようでよかった」

鷹宮邸の中庭。光をたっぷり吸った木々の緑は深いけれど、もう少ししたら色づきはじめるだろう。
木漏れ日が眩しい、光溢れる庭で見上げたその人は、以前とは少し違うように思えた。そういえばこんな明るい場所で、彼を見つめたことなどなかったかもしれないと紫織は思う。

頬のあたりがいくぶんシャープになった。けれど以前のようなクールな雰囲気はない。むしろとても落ち着いた柔らかな印象をうける。自分とは関わり合いのないところで、真澄が変わっていく。その事実を突き付けられると紫織はひどくせつない気持ちをおさえきれなくなる。

「わたくしがちゃんと…言えば、こうしてお会いすることもできたんです。……けれどどうしても会う勇気がなかった。会ったらまた、自分の感情を抑えきれなくなったら……どうしたらいいのか、と思うと怖くて……」
「そうでしたか」

真澄はそういって紫織を静かに見つめた。真澄の瞳はとても優しい。涙がでてきそうになるのをこらえて、どうにかぎこちなく微笑んだ。

「あなたが海外にいかれることになったと伺って、どうしてもその前にお会いしたい、強くそう思いましたの。どちらにいらっしゃるのですか?」

真澄はふっと苦笑を浮かべた。

「中国の上海です。私は大都でのすべての役職を辞任することになりました。籍は残してありますが、一兵卒として提携先である中国の商社に出向する形になります。そこで一から出直しです」

そういいながらも、その言葉には自虐的な響きも後悔の念も感じられない。けれどそんな真澄に対して不思議と嫌悪感はなかった。真澄がとても自然体だからかもしれない。

「いつ戻ってこられるのです?」
「さあ、いつになるのか。なんの肩書きのない私がどこまでやれるのか、ほんとうの実力を試される時なんでしょうね。そこで認められるまで、帰国することはできないでしょう」

真澄は微笑んだ。本来真澄という男はこういう表情をしていたのだ、とはっとさせられるような穏やかで自然な笑みだった。

「私のことより、あなたこそもう大丈夫ですか?」

真澄が紫織の左手首に巻いてある包帯にそっと視線を落とす。その心配そうな表情に、胸がときめくものの、そんな自分に紫織は苦笑する。

「ええ。傷はもう大丈夫ですわ。心も……一度死んで、違う自分に生まれ変わった。そう思うようにしておりますの」

自殺を図るまでの紫織は、まさにブレーキが全くきかない暴走車に乗りこんでいるようなものだった。膨らみあがった狂気が、気がついたら怒涛のように紫織を死の淵へと押し流していたのだ。自殺を図ったときのこともよく覚えていない。悪魔が紫織の耳元で何かを囁いたのか。無意識のうちに手にしていたナイフを左手首にあて力をこめていた。どくどくと溢れる赤い血を見て、ようやくはっと我にかえった。

何か絶叫したことを覚えているが、そのあと紫織の意識は途絶えた。

紫織が目を覚ましたのは、自殺を図った翌日の昼下がりだった。風が真っ白なカーテンをぱたぱたと揺らす病室の光景。太陽の光がカーテンの隙間から差し込んでくる病室は明るく静かで平和だった。世界が柔らかな光で包まれている。目を覚ました紫織に涙を流して喜ぶ両親や、祖父に囲まれて、紫織も涙が止まらなくなった。自分を慈しんでくれている人たちを悲しませるようなことを、どうしてしてしまったのか。生きていてよかったと痛切に感じた。

命を賭けてまで真澄を引き留めようとした。愛というよりは執着、執念に近かったそれらのどす黒い衝動は、死の世界に置いてこれたのかもしれない。
けれど心の奥底でまだじくじくと疼く想いは残っている。
真澄と一緒に生きたかった。一生を添い遂げたかった。彼の愛情が欲しかった。どうやっても行き場がなくなってしまったその想いが、やはりまだ苦しくて、自分でもどうしていいかわからない。

紫織の自殺未遂は、皮肉なことに真澄との別れを決定的なものにした。祖父によって速やかに婚約破棄がなされ、鷹宮コンツェルンと大都グループとの提携は白紙撤回へ、さらにはかなりあからさまな大都への嫌がらせが始まったと、紫織はだいぶ回復したあとで知った。

そんな状況下、真澄は激務の合間をぬって入院中は病院に、退院後は鷹宮邸に見舞いにきていた。嫌味を言われたうえに追い返されることを承知でほぼ毎日だった。そのことは嬉しくもあり、悲しくもあった。それは愛情ではなく、彼の誠意であることがはっきりしていたからだ。真澄は婚約を解消する際、再度その意志を確認されたときも、マヤを愛しているゆえに紫織とは結婚できないと祖父、両親にもきっぱりと話したという。

祖父が、馬鹿な男だ、あんな男と結婚せずに済んだお前は幸せだった、と呟いた言葉が、まだ耳の奥で響いている。もうどうやっても真澄の愛情を得ることは叶わない。それなのに簡単に彼への想いは消えるわけもない。そんな葛藤のはざまで、いつ癒えるかわからない心の傷を抱えた紫織は、とても真澄に会えるような状態ではなかった。

けれど真澄が今回のことで、外国に左遷されると聞き、どうしてもその前に会いたいと思った。このまま何もなかったようにして、また祖父や両親に敷かれた道を歩んでいくのはどうしても嫌だった。たとえ自分の心が引き裂かれても、真澄の顔をみて、ちゃんと言葉を交わさなければどこにも自分はいけない。はっきりそう感じた。当初、真澄と直接会うことに反対していた両親や祖父も、抜けがらのようになっていた紫織のみせた情熱に驚き、そして一度だけならと折れて、ようやくこうして会えることになったのだった。

「またお会いできて…よかった」

そういって微笑む紫織を、真澄はまっすぐ見つめた。

「私もお会いできたらお詫びしたい。ずっとそう思っていました。あなたに、死まで覚悟させてしまうなんて。私の意志の弱さがあなたの人生まで狂わせてしまう結果になってしまいました。本当に心から申し訳なく思っています」

深々と頭を下げた真澄に、紫織は首を振る。

「頭をあげてください。どうかもう…そんなふうに謝らないで。わたくしも、あなたにはもちろん、マヤさん…にも迷惑をかけてしまいました。最後には、こんなことまでしてしまって……」

紫織はゆっくりと手首の包帯を右手でなでて、悲しげに微笑んだ。

「でも。わたくし自身にも、どうすることもできなかった。そのことだけはわかっていただきたいんです。どうしてもあなたのことを諦めることなどできない、それならば死んだほうがましだと思うほど…あなたを愛していました。だけどもう……わたくしとあなたの道ははっきりと別れてしまいました。そのことは痛いほどよくわかっています。わかっているのに、この気持ちはやはり消えてくれません。どうすればこの想いが、消えてくれるのか……」

そこまで言って、紫織は言葉に詰まった。やはり涙が出てくる。
多分、真澄に会えるのはこれが最期になるのだろう。

だからこそすべてを伝えたかった。
狂うほどに真澄を愛したことを。

肩を振るわせて涙する紫織を、真澄は静かに見守っていた。何か言葉をかけてくれるわけでもなく、肩を抱いてくれるわけでもない。ただ静かに寄り添っているだけだったけれど、紫織にはそれで十分だと感じた。

しばらくして落ち着いてから。ハンカチで涙を拭きながら、一生懸命に笑みを浮かべ顔をあげた。

「ごめんなさい。取り乱して」
「いいえ…」

いたわるような真澄の瞳に、紫織の胸はなぜだか余計に痛むようだった。

「人生のすべてを賭してマヤさんを愛する覚悟を決めたあなたには、もうこの想いは伝わらない…ですわね」
「私には…あなたのそのお気持ちを受け止めることができなかった。自分の心を偽って婚約し、あなたを深く傷つけたことはどうお詫びしてもしきれません」

その言葉に紫織は俯いた。謝ってほしいのではない。彼の愛情が欲しかったのだ。わかってはいたけれど、やはり現実に向き合うのは辛い。苦しい。しばらく重い沈黙があったあと、真澄が口を開いた。

「…あなたがすべてを賭けて私を愛してくださったこと。そのことは一生心に刻んで生きていくつもりです」

紫織は顔をあげて大きく瞳を見開いた。真澄の言葉は、いつもの、耳ざわりはいいのにどこか表面的に感じさせるものではなかった。その表情も真剣そのものだった。
心の底から彼がそう思っていることがひしひしと伝わってきて、紫織の心臓はぎゅっと引き絞られるように感じた。彼は紫織の想いを確かに受け止めてくれたのた。絶望感に滲む淡い喜び。それでも。紫織は唇を噛みしめる。


「マヤさんと真澄様は…あの紅天女の魂のかたわれ…なのかもしれないですわね。 おふたりの絆は、わたくしが切ろうとしても切ることができなかった……。それでもわたくしは……」

やはり心から納得することなどできない。真澄は地位や名誉などといったものをすべてかなぐり捨ててもマヤを選んだ。真澄はマヤの愛を得るために、とてつもない代償を払うことを躊躇しなかった。彼女をずいぶん前から愛し続けてきたとはいえ、どうしてそこまでする必要があったのか。マヤと真澄の間に見えない絆があるなんてことも、彼らが魂のかたわれなどというものである事も信じたくないし、信じられない。紫織だって心から真澄を愛していたのだ。その想いがマヤのものと一体何が違ったというのだろうか。しばらく沈黙が続いたあと、真澄の低い声が響いた。

「私がここで何をいっても…おそらくうまく伝えられない気がします。だから…あなたにはあの娘の…北島マヤの紅天女をみてやって欲しいんです」
「え?」

紫織は吃驚して顔をあげた。真澄は慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりとつづけた。

「たぶんあの娘の演じる紅天女は、私のどんな言葉よりも雄弁にあなたに語りかけてくるはずです。私はもう試演をみることができませんから……あなたには観てやって欲しいのです」
「マヤさんの……紅天女を…」

紫織は真澄の顔をまじまじとみつめる。なんてこの人は残酷なことをいうのだろうと思わず掌を握り締めた。けれど見上げた真澄はとても真摯な目をしていた。その言葉には押しつけがましい所はまるでなく、ただただまっすぐにその心のままを語っているということが、紫織にも伝わってきた。
真澄や、真澄の父である英介を魅了し続けた紅天女。初代紅天女である月影千草に見出され、その紅天女を演じようとしている北島マヤ。彼らをつないでいるもの。それは間違いなく紅天女であり、確かにすべての答えはそこにあるのかもしれない……

「気を悪くされたのでしたら、申し訳ありません」

紫織は微かに首を横に振った。

「わたくしは……」

何かとても大事なものを探り当てようと思考を漂わせているから言葉がでてこない。それを察したように真澄は頷いた。優しく微笑みながら。

「そろそろおいとましなくてはいけない時間になりました。あなたを疲れさせてしまいましたね」

紫織ははっとして、あわてて首を振った。

「いえ。大丈夫ですわ。もう……行かれてしまうのですね」

以前と同じように気遣ってくれる真澄。だがどこか他人行儀だった以前と違って、今はその言葉に、速水真澄という人間の心を感じさせるような温かみがある。彼は本当に変わったのだ。
唐突に、彼がもう自分とは関わりのない世界へと旅立っていこうとしていることをはっきりと認識した。引き留めたい。強くそう思う。けれどそれが無意味なことを紫織自身が痛いほどわかっていた。たとえどんなに苦しくても顔をあげて、自分も別の道を歩いていかなくてはいけない。

「ええ。もう行かなくてはいけません。一日も早く紫織さんが回復されることを心から祈っています」

そういって頭をさげた真澄に、思わず紫織は口走っていた。

「握手を……!」
「え?」

真澄が紫織が急にだした声に驚いたように、大きく瞳を見開いた。最後にこうして彼を驚かせることができるなんて。そう思うとなんだかおかしくて嬉しくて、紫織は泣き笑いのような微笑みを浮かべる。

「お別れの握手をいたしましょう?」

ゆっくりと右手を前に差し出すと、一瞬の間のあと、真澄の大きな右手が静かに重なった。
以前何度も真澄とは手をつないだのに、それらの記憶はまったくない。けれど今握手している真澄の掌は、あたたかく、優しく紫織を包んで、そのぬくもりがゆっくりと紫織の中にしみこんでくるようだった。

このぬくもりを覚えておこう
狂うほどに愛したこの人のぬくもりを

目を閉じて心の中で何度も自分に言い聞かせる。そうしているうち、ある強い感情がわきあがってきた。

初めて愛したこの人と笑顔で別れたい。

それは鷹宮の娘としてのプライドや体面といったものを超越した、自然とわきあがってきた純粋な思いだった。ゆっくりと目を開けて真澄を見つめた。

「真澄様も……どうかお元気で」

ようやくいえた別れの言葉。口元が自然にほころんだ。真澄もそんな紫織に応えるように頷きながら微笑む。真澄と出会ってから初めて心からの笑顔を交わせたような気がした。

自分の命をかけた恋はこれで終わったのだと紫織は悟った。全身の力が抜け大きく大きく息をついた。ようやく今、真澄だけではなく自分自身をも解放することができたのだ。

手が離れる。
真澄がもう一度深く頭を下げ歩き出した。
長身の後ろ姿が涙でかすんでみえなくなってくる。
思わず目を閉じて頬を流れる涙をそのままに微笑んだ。次から次へと溢れてくる透明な雫が、まだ残っている真澄への”想い”すべて洗い流してくれることを祈りながら。


2011/04/22(金)
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