written by みくう




英介の居室のドアにノックの音が響いた。目で合図すると朝倉がすぐにドアを開けにいく。長身の真澄がゆっくりと部屋にはいってきた。車椅子の上から鋭い視線を真澄に向けたが、そんな英介に頓着する様子もなく、真澄は英介の前に立つと一礼した。

「申し訳ありません。遅くなりました」

顔をあげた真澄は英介の視線を静かに受け止めるだけで、動揺する様子もみせない。英介は何故だか妙な不安が募ってくるのを感じた。いつものクールな表情でもなく、かといって無気力なわけでもない。けっして戦闘的ではないのに、どこか強い意志のようなものがはっきりと伝わってくる真澄。いままでにはなかった雰囲気だ。どこか別の人間を前にしているような、なんともいえない居心地の悪さを感じさせた。

真澄は静かに車椅子の前にあるソファに腰掛ける。同じ視線になっても真澄は視線を逸らさないままだ。

「性懲りもなく、毎日のように紫織さんのところへ見舞にいっているそうだな。そんなことで赦してもらえるとでも思っているのではあるまいな?」

思わずでてきた嫌味はいつものことだが、苦々しい心持ちはいつもとは比べ物にならない。

「業務提携は白紙撤回、メインバンクの首都第一銀行からは融資をひきあげられたうえ、あちこちでグループ会社まで締め出しをくらい、大都は創業以来の危機に追い込まれている。まあ、当然といえば当然の仕打ちだろうな。大事な孫娘を他の女が好きだからと捨てられたあげく自殺未遂にまで追い込んだお前を、あの鷹宮翁が見舞いにきたくらいで赦すわけもない。このままでは間違いなく、大都もお前の道連れになって破滅だ」

そんなふうにいっても顔色をかえるどころか、頑固親父との会話方法を心得た息子そのままに、真澄はさらりと受け流して微笑んだ。

「お義父さんが指をくわえて破滅に追い込まれるのを待つ姿なんて、想像もできませんね」

やはり以前の真澄とはどこか違う。英介は心の奥底に生じた戸惑いと微かな怒りを押し隠して続けた。

「儂に尻ぬぐいさせるつもりか? すべてを投げ置いてあの娘と夜逃げしようたってそうはいかんぞ」
「まさか。そんな無責任なことはしません」

どこまでも冷静さを保ちつつ、微笑さえ浮かべている真澄に、英介の神経がじわりと泡立ってくる。落ち着き払った態度も口ぶりも気にくわない。それなのになぜだろう、そんな真澄が眩しい。思わず目を細めた。

「お義父さん?」

しばらく黙りこくってしまった英介に、真澄がどこかいぶかしげな視線を向けていた。はっとして、英介はあわてて乾いた唇を舌でうるおす。

「お前はこの後始末をどうつけるつもりなんだ? 鷹宮との関係は修復しがたいところまできておる。このままじゃ潰されるのは間違いないぞ」

鷹宮との関係がここまでこじれた今、平謝りする正攻法ではもう収拾がつかないところまできたのは明らかだった。英介としては、鷹宮翁の怒りが収まってくるタイミングを見計らって、いままで培ったすべての人脈、情報を総動員し硬軟とりあわせた懐柔策をはかって大都包囲網を解くしかないと考えていたし、実際動き始めてもいた。かなりダメージは受けることになるがこの逆境をなんとかしのぐことは可能だろうとみていた。

だがまずは、真澄が何をしようとしているのかはっきり問いたださなくてはならない。真澄が部下にも詳細を告げず、細心の注意を払って動いていたのは明らかだった。親戚筋の真澄排除論はここぞとばかりに勢いを増している。真澄の出方によっては大都の今後が、そして彼の人生が決する可能性もあるのだ。真澄は大きく息をつくと、決意を固めたことがはっきりとわかる、強い光を帯びた瞳を英介に向けた。

「私では鷹宮との関係修復はできないでしょう。ただいつまでも鷹宮の顔色ばかりみていても、結局いつしか身動きがとれなくなり、小さくまとまることしかできなくなります。ですから会社として進むべき方向性を見直すべき時期と捉え直すことにしたんです」
「鷹宮の圧力で融資も受けられない今の状況を、お前はどう打開しようというんだ?」

ひとつ間を置いたあと。真澄がゆっくりと口を開いた。

「第三者割当増資を実施します」
「なんだって?!」

予想もしていなかった真澄の言葉に、思わず声のトーンが一段上がった。

「引きうけ先は中国系の商社、清雲海運公司です。日本の有力企業は鷹宮には睨まれたくないでしょうからね、最初からコンタクトをとりませんでした。トップの張はオックスフォードで同窓でしたから、彼の人となりはよくわかっています。実直で正義感の強い人間です」
「ふざけるな! 中国の会社に身売りしろというのか?」

第三者割当増資は企業買収の常套手段だ。われ知らず激しい口調で怒鳴ってしまった英介に対しても、真澄は表情を変えずゆっくりと首を振った。

「確かに中国政府がバックに控えていますから、油断すれば一気に足元を掬われるリスクはあります。ですが増資による清雲海運公司の大都ホールディングスにおける持ち株比率は、全体の5%程度にすぎません。身売りではなく、あくまでも友好的な提携です。ですが大都からみれば増資によって一定の資金を確保できますし、主戦場を日本市場から中国の市場、ひいては世界市場へとシフトチェンジするいい機会になるはずです。一方で日本進出の強固な足場が欲しかった清雲にとっても悪い話じゃない。つまり両者にメリットがある増資になります。
ただし増資によって不利益を被る株主に理解を得なくてはいけません。おそらく、速水の親戚筋もここぞとばかりに妨害活動をしてくるでしょう。そのためにも大株主であり、会長であるお義父さんのご助力がどうしても必要なのです」

表情には出さなかったが内心では、短期間、しかも追い詰められたこの状況下でよくそこまで話を進めたものだと英介は舌を巻いた。それにも関わらず、ぎゅっと奥歯を噛みしめた。その表情がさらに苦虫をかみつぶしたようなものになる。真澄は間違いなく、ある決意を秘めている。英介はそのことを、心の奥底で一番恐れていたことに改めて気づかされた。

「つまりお前は…臨時株主総会を開いて、増資について決議したいと…そういう事なんだな。そうなれば……」
「おっしゃるとおりです。そうなれば間違いなく私の責任問題にも話は及ぶでしょう。私は大都ホールディングスの取締役、および大都芸能社代表取締役社長を辞任する覚悟でおります。私が引責辞任をすれば、鷹宮の態度を軟化させるきっかけにもなるかもしれません。……ただ、お義父さんには多大な迷惑をかけ、大変申し訳なく思っております。速水の籍から抜けろとおっしゃるならば、そのお言葉にも黙って従うつもりです」

真澄がゆっくりと頭をさげた。しーん、と静まり返った空気の中、朝倉の咳払いの音だけが響いた。

英介はじっと真澄の顔を見つめていた。遠い昔、まだ真澄の母親が家政婦としてこの屋敷で働きはじめた頃。庭にある池の泥を掃除させるように命じたときのことをふと思い出した。あのころから、血のつながった親戚筋の子供たちとは別格の、際立った利発さをみせた真澄。そうだった、あのときこの子を後継者にしようと決めたのだ、と英介は幼かった真澄の面影を探すように目を細めた。

けっして親らしいことなどしてこなかった。真澄が誘拐されたときには見殺しにさえしようとした。真澄の母親が死んだときも、優しい言葉のひとつもかけてやらなかった。真澄の表情がどんどん消え、時折みせる冷たい、敵意のこもった視線に気がついても、知らないふりをした。なぜなら、憎しみや怒りというものが、人間を動かす原動力になることを、英介は身をもって知っていたからだ。そうやって彼自身、激動の時代を生き抜いてきた。だからこそ、その憎しみの矛先をすべて仕事に注ぐように仕向け、大都の後継者となるべく鍛え上げてきたのだ。そして真澄も英介の期待以上に成長してきた。それなのに今になって真澄は自分の元から去ろうとしている。

「逃げるのか?」

どんなささいな感情も出ないように注意しながら、英介は、わざといつものような横柄な口調で呟いた。

「お義父さん?」

真澄が何かを不思議なものでもみるように、英介をみた。

「お前は応急処置だけしてあとは儂におしつけて逃げるつもりなのか、と聞いておる」

真澄はしばらくじっと英介の顔を見つめた。英介の真意をさぐろうとするような、そんな視線だった。しばらくして、ようやく口を開く。

「それは……私に大都に残れと、そうおっしゃっているのですか?」

二人の間にしん、と沈黙が落ちる。お互いが、お互いを探りあうような空気が流れたあと。英介が口を開いた。


「お前は大都をやめ、養子縁組も解消して身軽になったところで、あの娘と手に手をつないで、一からやり直そうとでも思っていたのかもしれない。だが、お前を後継者として長年にわたって育ててきた儂にその恩を仇で返すような真似は絶対に許さん。お前のいうとおり、大都ホールディングスの取締役や大都芸能の社長職辞職は免れん。お前が多大な損害を会社に与えたのは間違いないからな。そうしなければ親戚どもが煩いし、鷹宮への体面も保てん。だが養子縁組を解消するつもりはないし、大都から離れることも許さん」

血のつながりなどないはずなのに、やはり自分と同じように紅天女女優に魅入られ、のめりこんでいた真澄。

あの月影千草が、紅天女の後継者と見込んで育ててきた北島マヤ。彼女は、千草以上の才能の持ち主であることは間違いない。普段はひどく地味で目立たないのに、ひとたび演技をすれば光輝くような眩いばかりの才能を見せる。間違いなく天才だ。しかも、素顔のマヤもひどく魅力的だ。いったん言葉を交わすと、あっという間に惹きつけられてしまう。気難しい英介ですら、すぐにその心をほだされてしまった。

そんな北島マヤと何年も関わっていた真澄が、どうして心惹かれないのか、内心不思議に思っていた。だが蓋をあけてみれば、真澄は出会った頃から、あんなに憎まれていたあの娘を陰から匿名で支えてきたらしいことがわかった。どんなに憎まれていても、月影千草に恋焦がれ続けた自分のように、北島マヤをずっと愛し続けてきたのだ。

驚いたことに、あれほど真澄を嫌っていたはずのマヤも真澄を愛していたらしい。おそらく真澄が匿名の支援者、紫のバラの人だったことも大きいのだろうが、もっと違う理由があるのかもしれない。真澄の情熱がマヤに伝わったということなのだろうか?

いや、違うと英介は心の中で首を振る。千草への情熱なら、真澄のそれに負けるようなものではなかったと断言できる。
けれど、英介の情熱は千草にはどうやっても届くことはなかった。まるで忌むべきもののように避けられ続け、その想いが成就することはなかった。追いかけても、追いかけても、けっして届かないその想いは屈折し、行き場を失い、迷走し、ついには自らの体の自由まで奪う結果になってしまった。情熱だけでは決して想いは通じない。そのことは英介自身が痛いほどわかっている。

だが真澄はまさに英介がけっして得られなかったものを、得た。しかもそのせいで地位や財産、名誉まで失うかもしれないというのに、その表情は澄みきって迷いがない。
そして。そんな真澄を、他の誰よりも痛いほど英介には理解できてしまう。おかしい、気が狂っていると世界中の人間に言われようとも、何者にもかえられない尊い存在。それが紅天女であり、紅天女を演じる女優のすごさなのだ。まさに魅入られた人間しかしかわからない境地。

真澄への強い嫉妬を感じつつも、血のつながっていないはずの真澄と自分との絆の深さを感じずにはいられなかった。真澄は英介の魂を間違いなく受け継ぎ、さらには自分がなしえなかった夢を実現する力をもつ、唯一の人間なのだ。
大都の経営者としても、英介の魂をうけつぐものとしても、真澄以外の後継者など考えられない。彼を手放すわけにはいかない。

「お前が儂を憎んでいたことも知っていた。……だが、そんなことは百も承知したうえで、いままでも、そしてこれからも、儂の後継者はお前しかいないと思っておる」
「お義父さん……」

真澄が大きく目を見開いたのをみて、思わず本音をこぼしてしまったことに英介は気がついた。けれどもう、それを押し隠そうという気にもならない。
二人はそのまましばらく黙りこんだ。何もしゃべらないのに、今までにない、柔らかな空気が二人を包んでいた。真澄が顔をあげて、ゆっくりと頭の中に有る言葉を探すように語りだした。

「正直に申し上げると、確かにあなたを憎んでいたこともありました。憎しみが頂点に達したのは母が死んだときです。あなたがあれほど紅天女に固執しなければ、母はあんなふうに死なないですんだかもしれない。あなたのすべてを、紅天女も、会社もいつかすべて奪ってやる。そう心に誓ってさえいました。
ですが……おかしいですね。あなたが心血を注いだその紅天女に、いつのまにか私まで魅入られてしまっていた。……そしてあの娘に、北島マヤに出会うことができた。今、こうなってみると、すべての出来事は無駄ではなかったのだと、私がここにたどり着くまでに必要な道だったのだと痛感しています。今は……お義父さんに感謝しています」

息子の顔をみつめる。まっすぐなその瞳は、いたわりに満ちていた。鼻の奥あたりに、つん、と熱いものがこみあげてくるのを感じて、英介はあわてて視線を逸らした。

しばらくしてからだった。

「お義父さん、ひとつ、頼み事を聞いてもらえませんか」

ためらいがちに呟かれたその言葉に、英介はゆっくりと真澄に視線を戻す。どこか照れたような、困ったようなその表情はまさに、親に頼みごとをしようとする息子そのものだった。英介は口元に思わず浮かんだ苦笑を堪えることができなかった。
 
                                        


2011/04/15(金)
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