written by みくう
illustrated by マコ
「マヤ!」
「ひゃあ!」
アパートの小さな窓の下にぺたりと座りこんで、一心に小さな画面を見つめていたマヤはあわてて携帯を閉じた。
「ああ、びっくりした! 麗ったら急に声をかけるんだもん」
頬を赤らめて、目をまんまるにしているマヤをみて麗は苦笑した。
「何もそんなに驚くこたないだろう。それともよっぽど人には見せられないようなこっ恥ずかしい内容なのかい?」
「そ、そんなことないけど……」
あの人も同じような心境で、マヤをからかっているのだろうと思いついて、麗は吹き出しそうになるのをため息で誤魔化した。
「最近、家にいる間は台本見るか、携帯をみているかどっちかだ。……まあ、あんたの気持ちもわかるけどさ」
一日に一回くる真澄からのメールを心待ちにし、そのメールを何度も何度も読み返しているマヤはいじらしい。
先日無断外泊をしたマヤを問い詰めようとしたら、いきなり抱きついてきて呆気に取られた。小さな身体が震えていた。それは具合が悪いというよりは、強い興奮のためにそうなってしまったような震えだった。 慌ててお茶を飲ませ落ち着かせたあと、たどたどしい調子でマヤが語りだしたその話は、驚きの連続だった。
ずいぶん前に、マヤの足長おじさんである紫のバラの人が、あの速水真澄だった事に気付いたこと。あんなに憎んでいたはずなのにいつのまにか、紫のバラの人としてではなく、速水真澄自身を愛してしまっていたこと。その時には真澄は婚約していて、ずっと身を焦がすような片思いに苦しんできたことなど、涙を滲ませながら語った。
そして。なぜだか照れながらおずおずと話し出した無断外泊の経緯を聞いて腰をぬかさんばかりに驚いた。 ひょんなことから真澄と二人、ワンナイトクルーズを共にすることになり、そこで相思相愛だったことがわかったらしい。
あの男もマヤを愛していたなんて!
麗は驚嘆のあまり、飲んでいたお茶を本気で吹いてしまったくらいだ。けれど。そう言われてみれば、確かに彼はマヤの節目節目に必ず側にて、あの娘を導いていなかったか? 彼が紫のバラの人ならばすべてが繋がる。あれ程まで憎まれながらも、長い年月、確かにマヤを愛し続けていたのだ。速水真澄という男は今まで自分が持っていたイメージとは違うのかもしれないと麗は思う。そうだとしたら、彼も、マヤに負けず劣らず不器用な人間であることは間違いない。
下船した後、一緒にいたマヤをみて、激昂し気絶してしまったフィアンセを真澄は家まで送らざるえなかった。その後、マヤは真澄とは直接会っていないらしい。
そもそもマヤがその船に乗ったのも、紫織に押しつけられるようにして渡された小切手を返そうとしてのことだったようだ。婚約指輪の盗難事件やら、ウェディングドレスを汚したという事件も、あの虫も殺さないような顔をした、婚約者が一枚噛んでいる可能性が高いと思っている。麗はそこまで考えるとため息がこぼれそうになった。
どちらにしてもここまで話がこじれてしまうと、やり手と言われるあの男でも、事態を収拾するのは並大抵のことではないはずだ。いや、だからこそ、直接マヤと会うことはせず、一日一回、メールを交換するだけにして、これからのことに備えているに違いない。それにしても。そのメールをこうして一日千秋の想いで待ちわびているマヤが不憫であり、また心配の種でもある。
「試演が控えているんだからね。集中しなきゃとてもじゃないけど、亜弓さんに敵うわけないよ」
マヤの気持ちを痛いほど感じつつも、麗はあえて強い調子でそう言う。マヤはそっと顔をあげたあと、どこか憂いを帯びた笑顔を浮かべた。
「……うん、よくわかってる」
それは恋が成就したことの照れでもなく、ようやく想いが通じ合った恋しい人に会えない痛みを隠す笑み、というものでもない。心の奥底にある哀しみ。それが透かし模様のようにマヤの笑顔に滲んでいる。少女がいつの間にか、大人の女になってしまったような、愛すべき無邪気さが儚く消えてしまうような切なさを感じさせて、麗ははっとするのだった。
「ねえ。速水さんはなんて言ってきてるんだい?」
つい。そんなふうに聞いてしまっていた。
「え? あ、うん。いつもだいたいメールの内容は同じなの。稽古はしっかりやっているか、とか、ちゃんと食べろとか。……あとは、自分は大丈夫だから、こちらのことは気にするなって」
そういって、いとおしげに携帯のモニターを見つめるマヤをみて、麗は目を細めた。
彼が送ってくるメールが、いかにマヤの心の支えになっているか、その表情からもよくわかる。未だに信じられないが、マヤも真澄もお互いを思いやり、愛し合っているのは間違いないのだろう。
けれど、この二人の間には、あまりにも障壁がありすぎる。
昔から。複雑な糸が絡み合うようにして、関わってきた二人。確かにその糸はつながっていたにせよ、それらを解きほぐすのも並大抵のことではない。
――― やれやれ。前途多難だな
麗は心の中で嘆息しつつも、そんな気分を跳ね飛ばすように勢いよく立ちあがった。
「速水さんも忙しいなか、マヤを心配してるんだな。さて、そろそろ布団でもひこうか。マヤ、手伝って」
そのときだった。
“トントン”
安普請のドアをたたく、乾いたノック音が部屋に響いた。マヤと麗は顔を見合わせた。もう夜の9時を過ぎている。
「誰だろう。こんな時間に」
麗が眉をひそめながらも、ドアの前に立った。
「どちら様ですか?」
麗が威嚇するように、張りのある低い声でドアの向こうに話かけた。一瞬の間があったあと、返事があった。
「……夜分遅くに申し訳ございません。鷹宮紫織です。ドアを開けていただいてよろしいでしょうか」
麗は思わずマヤを振り返った。マヤは大きく瞳を見開いたまま、手のひらを口にあてた。

真澄はパソコンのモニターから、視線をあげた。
かなり目が疲れている。目がしらに指をあてて、解きほぐしたあと、ゆっくりと立ち上がって、窓辺に佇む。社長室の眼下には、見慣れた東京の夜景が広がっている。晴れているにも関わらず空に星はまったく見えない。都会のイルミネーションが好きだと言っていた紫織を思い出し、軽くため息をついた。
疲れているときはどうしても煙草を吸いたくなる。本数は以前よりは減ったが、それでもやはりこういうときには、どうしても煙草に手が伸びてしまう。ゆっくりと火をつけて、吸い込んだ煙を吐き出して、ようやく頭がクリアになったのを感じた。
船上でマヤを抱きしめてから、2週間ほどしか経っていないというのに、あそこから、ずいぶん遠くに来てしまったような感覚がある。
鷹宮からは、不気味なほど音沙汰がない。おそらく紫織が破談になることを、必死で食い止めているのだろう。だが相手はあの鷹宮家、百戦錬磨の鷹宮翁である。着々と破談になった場合の手筈は整えているはずだ。こちらも漫然と過ごしている訳にはいかない。鷹宮のグループ会社、関係者の極秘内部資料を聖に集めさせたり、あらゆる人脈をたどって面会するなど、対抗手段を講じている。
そして義父。
婚約を白紙にしたい。そう申し出たときの義父はじろり、と真澄を睨んだままたっぷり1分は口をきかなかった。そのあと、予想どおり激しい叱責が始まった。だが真澄にとって、そんなものは恐れるに足りなかった。
『私も、あなたと同じように、紅天女と紅天女を演じる女優に魅入られてしまったんです。もうこの気持ちを誤魔化すことができません』
怒鳴り声が止んだあと。淡々とそういう真澄に、北島マヤか、そう呟いて義父は黙り込んだ。血もつながっていないはずの息子が、どうして自分と瓜二つの人生を歩もうとしているのか。義父は自問しているように見えた。だが、そんな義父と自分は違うとはっきりと真澄は感じていた。マヤに愛され、そして自らも愛しぬく覚悟を持っているのだから。
誘拐され見殺しにされそうになった幼い小学生でもない。後ろ盾である義父がいなければ、組織を動かせなかった青二才でも、もうない。何年も辛苦に耐え、感情を押し殺し、冷静に状況を判断し、人脈を作り、人を、組織を動かすノウハウを頭に叩き込んで実践し、成功させてきた。その年月と経験が、いつのまにか義父とまっすぐに対峙できる力になっていた。
その一方で、後先を考えず、一夜過ごしたのが紫織ではないと鷹宮翁に告白してしまった自分に苦笑する。感情をコントロールし、いかに冷静に事を運ぶか。若い時分から常にそのことを心掛けてきた真澄にとって、そんなものは全く役に立たなかったことが、ある意味心地よい衝撃だった。そんな理性をなど、マヤから愛されている、そうわかった喜びによって、跡形もなく飛び散ってしまった。
氷のように冷えた冷静さも、余計な事を考えず前に進もうとする情熱的な行動力も、今まさに自分の中になんの違和感もなく共存している。
この後、義父からも何も言ってこないし目立った動きはない。
大都内部を知りすぎている真澄を排斥するのは、厄介なことだと、わかっているからこそ慎重になっているかもしれない。 もちろん、義父の動きについてもアンテナを張りつつ、いざとなれば大都を飛び出す覚悟もできている。
船上でマヤが演じた阿古夜のセリフが、真澄の頭の中で、なんども繰り返し響いている。
――― 捨ててくだされ 名前も過去も… 阿古夜だけのものになってくだされ…!
マヤに、阿古夜に導かれるように、あの日を境に自分は変わった。それは死んで冷たくなってしまっていた全身の細胞に、再び、血が通いはじめた感覚に近かった。
いままで、必死で自分を押し込めようとしてきた世界を自らたたき壊している。もちろん油断すれば一瞬にして、自分自身がたたきのめされる立場になる。けれど、それらしがらみをすべて壊すことに、ある種の爽快感すら真澄は感じていた。
ただ、そんな自分のせいで、紫織の人生を、そして紫織自身も変えてしまったことに、真澄はの心は鉛を帯びたように重くなる。
先日、鷹宮邸で会った紫織は忘れられない。あれ以来紫織には会っていないが間違いなく、あのときの彼女は常軌を逸していた。マヤを陥れようとして捏造した、指輪盗難やウェディングドレスの染み。そのうえ紫のバラの人として渡したアルバムをびりびり破ってマヤに送りつけたうえに、手切れ金として渡したという一千万円の小切手。すべてに悪意が満ちている。そして今後ももしかしたら、なにかをマヤに仕掛けてくるのかもしれない。
あの完璧な婚約者だった紫織に対して強い嫌悪を感じながらも、そうさせてしまったのは真澄本人なのだという自責の念も疼いていた。
紫織も真澄と見合いをしなければ、人を陥れるための画策をしたり、夜叉のような形相で、男の不実をわめきたてたりすることは、彼女の人生の中ではなかったのかもしれない。
けれど無情にも運命は絡みあい、化学変化を起こし、変化していく。
それらはまったくコントロールできない。過去への悔恨も後悔も役にはたたず、すべてを巻き込んで渦になっていくようだ。 傷だらけになりながらも前を向いて進むことしか、真澄に残された道はない。
真澄の物思いを破るように、ポケットにいれてある携帯が振動し始めた。ディスプレーの表示を確認してボタンを押した。
「聖か?」
『はい、取り急ぎお知らせしなければならないことが起きまして』
「どうした?」
すぐに用件を切り出した聖に、真澄は嫌な予感を感じて、声が低くなった。
『いつものようにマヤさんのアパート前に今、立ち寄ったのですが、鷹宮のものだと思われる車があります。紫織様がマヤさんの元を訪ねていらっしゃるようです』
「なに?」
あの、狂気に満ちた紫織の瞳を思い出して真澄は背中がぞくりとする感覚に襲われた。
『同居している青木さんも一緒のようですから、紫織様がマヤさんに何か危害を加えるようなことはないかと思われます。ですがここ最近、マヤさんは稽古でも覇気がなく、どこか思い悩んでいらっしゃったような様子がありましたので……』
マヤに対する紫織の所業もすべて把握している聖だからこそ、マヤの精神状態があまりよくないことをその仕草や表情から、敏感に感じ取っているのだろう。
だがマヤや自分にも、鷹宮が手配した興信所の人間が張りついている恐れがあるし、マスコミの目もある。今、マヤと接触するのは、リスクが高い。
けれど船の上で、確かに通じ合ったはずのマヤの心が、今はどこか遠い。それはおそらくマヤも同じだろう。そんな状況下で、紫織がマヤを訪ねてきたとしたら。さらにマヤにとっては精神的な打撃になることは想像に難くない。
タイミングやちょっとした気持ちのすれ違いで、ようやく交差したはずのマヤとの道がまた別れていく。まさに船の上での出来事は、儚く消えてしまう夢のような奇跡だった。
だが夢で終わらせるつもりはない。
マヤを抱きしめた瞬間に、夢を現実にかえてやると誓った。真澄は煙草を灰皿にぎゅっと押しつけると、ゆっくりと息を吐いた。
「聖」
『はい、真澄様』
「頼みたいことがある」

「……マヤ、マヤ! 大丈夫かい?」
紫織が帰ったあと。玄関にぺたりと座りこんでいたマヤはようやく我にかえった。心配そうに見つめている麗をみて、思わず涙がじわり、と溢れた。
ドアの前に立っていた紫織。あの波止場で倒れたときの紫織とは別人のように、落ち着き払っていた。そのあまりにも静かな様子が、紫織から立ち上っている青白い炎をよりはっきりと見せるようで、マヤは微かに身震いした。
中に入るように勧めたが紫織は固辞し、玄関先ではっきりとした口調で話しを切り出した。
真澄がマヤにどんな話をしているのか自分は知らない。けれど紫織との結婚は、真澄の人生にとって、非常に重要なものであること。もし、一時の気の迷いで、この結婚を破談にしたら、間違いなく真澄の人生は転落の一途をたどるだろうことを、低い声で一気に理路整然と語った。
『ねえ、マヤさん』
紫織の静かな、けれどどこか粘り気のある耳障りな声に、マヤはぴくりと震えた。
『わたくしたちのような世界に生きる人間は、愛だの恋だのといった一時の感情に流されているわけにはいかないのです。もし、そんなものを貫こうとすれば、あっという間に足元を掬われてしまいます。わたくしの言っていること、おわかりになりますわよね。マヤさんの存在が、真澄様の輝かしい未来を脅かしている、そう申しあげているのです。
あなたが、あくまでも仮に、ということですけど、あなたも真澄様を愛している、ということなら、身をひくべきではありませんこと? そうでしょう? 愛している人が破滅への道をたどろうとしているのを、喜んで受け入れる女なんて、この世のどこにいるというのです?』
能面のような表情に微かな笑みを貼り付けた紫織は、けっしてマヤから視線を逸らさなかった。丁寧な言葉の奥に潜む憎悪。とても紫織の顔を直視するこができず、マヤはひたすら肩を震わせ、俯いていた。
愛だの恋だの関係ない。そういいながらも絶対に真澄を離したくない、真澄との未来を守りたい。そんな紫織の気持ちが痛いほど伝わってきた。婚約者から真澄を奪おうとしている罪。さらには、真澄のために用意されている輝かしい未来をも奪うかもしれない恐怖。
紫織は、マヤがここしばらく感じていた不安を遠慮なくこじあけた。それらは口を開けてその中身をどろりと吐き出し、染みになって目の前に広がっていくようだった。
「ねえ、麗。あたし…どうしたらいいの…かな?」
麗は唇を引き結んだまま、ゆっくりとたて膝になって、マヤと視線を合わせた。
「まさに修羅場だな、こりゃ」
ぼそりと呟いた麗のその言い方がなんだかおかしくて、思わずマヤの口元に苦笑が浮かんだ
「もう……麗ったら」
微かながらも笑みを取り戻したマヤを見て、麗も安心したようにマヤの頭を撫でた。
「紫織さん、だっけ? 奪われそうになったフィアンセを取り戻そうと、深窓の令嬢がわざわざこんなボロアパートにまで恋敵に会いにきたその根性はまあ、認めるとしてもさ」
麗はさきほどまでの記憶をたどるように目を細めた。
「あの人、かなりの曲者だよ。いきなりこんな遅い時間にきてさ、なんだよ、あの高慢ちきな態度。マヤが止めなかったら、塩まいて追い返すところだったね」
そういうとマヤが困ったような顔をしたので、麗は大きくため息をついた。
「それに。指輪だのウエディングドレスを汚しただのって犯罪者扱いされたって、マヤが泣いて帰ってきたことあっただろ? さっきはその話は出なかったし、あんたもはっきり言わなかったけれど、あれも絶対あの人が仕組んだに違いないよ。
だいたいさ、あの人と結婚しないからって、速水さんがそのまま落ちぶれていくなんて想像できないね。速水真澄っていう人は、まあ、マヤの前でこういうのもなんだけど、自分から仕掛けていく策略家タイプだろ? 金持ちのぼんぼんの癖に、それこそ人生の修羅場を何度もくぐりぬけてきた叩き上げみたいな雰囲気があるじゃないか。まあ、そりゃ、多少は大変なこともあるだろうけどさ、そんなこたあの人だって百も承知で、あんたと一緒にいたいっていったんだと思うよ。それに速水さんに限って、そうそう簡単に転げ落ちたりしないと、あたしゃ思うね。紫織さんはただ、脅しをかけに来ただけなんだよ」
「そうなのかな……」
自信なさげに呟いたマヤに、麗はしっかりと頷いた。
「そうだよ。それに、マヤは当事者だから、それどころじゃなかっただろうけど、紫織さんっていう人、冷静な目で観察してると、明らかに普通じゃない。あれは、嫉妬っていうより何かに取り憑かれてる。執着とか怨念に近いな。役者だったら、迫真の演技に拍手喝さいってところだけど、あの人の場合はかなりヤバい気がするよ。あんた、気をつけたほうがいい」
麗が真面目な顔でそういうと、マヤが大きく首を振った。
「紫織さんだって……すごく速水さんのことを愛しているんだと思うの。愛しているからこそ……体が弱いのに、わざわざこんな時間にここまであたしに会いにきて。あたし、そういう人から速水さんを奪おうとしている…だよね。そこまでして……たとえ速水さんと一緒になったとしても、それって本当の意味では幸せになれないんじゃないかな」
「マヤ?」
ここしばらく。胸を塞ぐようにして思いつめたいたことを、口に出したら、ようやくマヤの心も少し軽くなったような気がした。
真澄は婚約している。そもそも好きになってはいけない人なのだ。
けれど、船の上ではそういうことはすべて消え去っていた。
あふれ出てしまいそうな真澄への想いすべてを阿古夜の演技にこめ、それを真澄がしっかりと受け止めてくれた。抱きしめてくれた。別れ際に愛している、そう言ってくれた。
船の上では俗世とはまったく切り離された世界だったからこそ、二人の気持ちはつながることができたのだ。
「やっぱりダメだよ。紫織さんから、速水さんを奪うなんて。そんなこと、許されないよ」
「マヤ……」
マヤの瞳から、また、ぽろぽろと涙が溢れ始めた。
本当の世界では、やはり二人は一緒になってはいけない。マヤの胸は張り裂けそうなくらいにじんじんと痛んだ。
そのときだった。
充電器の上に乗っていたマヤの携帯が鳴りだした。ぼろぼろ落ち始めた涙を必死にぬぐうマヤのかわりに、麗がひとつ息を吐いてからたちあがった。テレビの上にある携帯をとり、マヤに手渡す。
「ほら、マヤ。あんたの携帯だよ」
「あ、うん」
携帯を開いて、耳にあてる。しゃくりあげてしまい、なかなか声が出ない。
「……もしもし」
間を置いて出た電話に、聞き覚えのある声が穏やかに応えた。
『マヤさん、聖です』
「聖さん?!」
マヤの胸の鼓動がぎゅっと一気に高鳴った。久しぶりの聖からの連絡だった。
『ご無沙汰しております。夜分に申し訳ありませんが、あの方から伝言がございまして』
「あの方……」
マヤの声が震えて掠れた。
『はい。マヤさんに直接お会いしたい、そうおっしゃっています。よろしければ、明朝、迎えにあがりたいのですがご都合はいかがですか?』
2011/02/23(水)
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