written by キリエ





真澄から連絡が入ったのは、その日の夜遅くだった。
マヤは寝付けず、布団の上に腰を下ろし、紅天女の台本を読んでいた。
もちろんセリフは頭に入っている。
だが今のマヤには、なにか衝動のような激しいエネルギーが体の細胞一つ一つからわき起こり、記憶の中のセリフが違う色合いで心に迫ってきていた。

これまで様々な役をつかんだときに得られたような感覚に悦び、震える。
姫川亜弓がたとえどんなに素晴らしい紅天女を演じて、それを誰もが賞賛しても、自分の紅天女に臆するところはない。
たった一度きりの試演だけで終わることになっても、後悔することはないだろう。

すっかり寝入った同居人を気遣い、窓越しの街の灯りで台本に没頭していたマヤだったが、不意に鳴り響いた携帯の着信音に呆然と、まるで過去から来た人間が未来の器機に対面したときのような表情を浮かべた。
麗の寝返りを打つ動作に、我に返ったマヤは携帯をつかみ上げる。
液晶表示を確認するまでもなく、相手が誰だかわかっていた。

「もしもし」
「俺だ」

マヤは、ほぅっと息を漏らす。
今朝伊豆で一緒だったにも関わらず、何年も、いや前世以来の邂逅な気分がした。

「起きていたのか?」
「うん、心配してた」
「出て来れる?」
「えっ……?」
「アパートの前に来ている」

聞くやいなやマヤは立ち上がった。
階段を転がり落ちる勢いで下り、たたきの他人の突っかけを引っ掛ける。
引き戸を力任せに開け放つと、停まった外車を背にして真澄がいるのが目に飛び込んできた。
勢いのままマヤは彼の胸に抱きつく。
真澄もマヤがそうするのがわかっていたかのように腕を広げて、彼女を迎え入れる。

「会いたかった……!」
「俺もだ……!」
「ねぇ、紫織さんは? 大丈夫なの?」

マヤはうんと首を伸ばし、真澄の顔を見上げた。
いつもは艶のある真澄の肌が、夜の中でも憔悴で陰を帯びているのがわかる。

「マヤ、車の中で話そう」

真澄は助手席のドアを開け、マヤが座るのを確認すると、自分は運転席側へ回った。
自身も席に着くと、心配げなマヤにささやかな笑みを作った。

「彼女は命に差し支えはない。朝倉の電話がたいそうだったから、俺もかなり動揺したが、それほどのことじゃなかったよ。ただ……」

真澄の声が途切れた。
マヤは食い入るように彼を見つめる。

「あんなことをしてまで、俺をつなぎ留めたいなんて……。だが俺には、彼女を救えない……」

絞り出すようにこぼした真澄の言葉に、マヤは胸が痛んだ。
昼間、真澄の優しさとを聖が懸念したことが蘇る。

マヤはぐいと真澄の方に身を乗り出した。
近づけすぎた顔の中にある瞳をのぞく。
色素が薄いその瞳は憂いに沈み、彼の魂の形を成していると感じた。

どうして今まで、彼の瞳に宿る優しさや哀しみに気づいてあげられなかったのだろう。
自分をあざけるときも、追い詰めるときも、この瞳には真実が秘められていたのに。

「速水さんが魂のかたわれだと思っていたのに、そうじゃなかったから。紫織さんにも本物の魂のかたわれがいるはず。今はとても孤独で、でもその孤独がどれほど深いかも、わからなくなっちゃうくらい辛いんです」
「ああ……」

マヤは真澄の手を取り、頬を寄せる。

「早く紫織さんに、本物の魂のかたわれが現れたらいいのに。あたし達みたいに……」
「簡単なことじゃない」
「でも絶対いるんですよ。自分が生きていることが、なによりの証です。元は一つの魂だったんだから。信じていれば、魂のかたわれにきっと巡り会える。そして会えば、必ずわかる……!」
「じゃあ、俺たちにできることは願うだけだな……」

真澄が額をマヤの肩に乗せた。
眠るように目を閉じて。

「しばらくこのままで……」
「はい……」

おやすみなされ、おまえさま……。
なにもかも忘れて、さぁ……。

マヤも瞳を閉じる。
阿古夜のように、あたしもあなたを愛そう……。
そんな想いを抱いて。

*

翌日、稽古場に到着したマヤは目を疑った。
キッドスタジオの玄関が封鎖されていて、でかでかと「抵当物件! 使用厳禁!」と張り紙がしてある。
マヤには抵当の意味はよくわからなかったが、使用厳禁はそのまま受け取ればいいのだと、とりあえず解釈はしてみた。
つまり、ここで稽古ができない。

玄関口には同じように面食らっている役者やスタッフが集まっている。

「困ったことになったね」
「桜小路君……」

バイクにまたがったままでいる桜小路が、マヤに声をかけてきた。

「黒沼先生がキッドスタジオの持ち主に電話してるって。しばらくこのまま待ってよう」

黒沼は五分もしないうちに現れた。
怒っているというより、なにか諦観のような静かな表情だったが、それが却って事態の深刻さを告げていた。

キッドスタジオの持ち主は夜逃げしたらしい。
抵当として入れていたこのスタジオは、首都第一銀行によって抑えられたということだった。
突然のことだったが、借金を踏み倒して逃げるなんて事前にわかるわけがない。
来月の使用料も払ったばかりなのにな、とボヤく黒沼に、役者のひとりが困惑の声を上げた。

「じゃあ、僕たちはこれから、どこで稽古したらいいんですか!?」
「これから探す」
「でも、試演はもうすぐなんですよ」
「そんなのわかってら!」

黒沼は不機嫌そうに切り捨てると、スタッフにいそいで都内のスタジオに片っ端から電話して、これから十月の試演まで借りられるか問い合わせろと激を飛ばした。
役者たちにもツテはないかと訊ね回る。

稽古をやりたくても場所がない。
こんなのまるで大都芸能の速水真澄のやり口ね、とマヤの背後で誰かがつぶやいた。
マヤは思わず口を出す。

「速水さんはこんなことしないわ……!」
「じゃあ、いったいなんでこんなことになったんだよ! 嫌がらせだよ、これって!」 

役者の内から疑念の声が飛ぶ。

「難しいことはよくわからないわ。でも大都芸能は関係ない。絶対に……!」

マヤも負けじと言い返す。

その横で役者がひとり、またひとりと帰ろうとしていた。
マヤは慌てて制する。

「ねぇ、待って!」
「どうせ今日はなにもできないでしょ。稽古場決まったら連絡くれる?」
「稽古は……、できるわ!」

マヤは言い切った。

「えっ! どこで?」
「あっちの公園よ!」

マヤは指差す。

「あそこの公園で稽古できるわ。あたし、ひとりでやってたもの」

一斉に不満の声が響いた。
それはマヤだからできた、恥ずかしい、こんな大勢なんてちょっとありえない、と口々に騒ぐ。

「みんな聴いて! 試演の場所は駅前の開発地域よ。普段あたし達がお芝居する劇場みたいなところじゃないわ。空調はないし、照明もちゃんとしてない。けど代わりに、風が吹いて、陽の光が直接届くわ。全然違う環境だけど、すごく素敵よ。それに屋外でお芝居したことある? あたしはあるわ。真夏の夜の夢をやったの。劇場と演じ方が、まるで違うの。声だって、いつもの何倍もがんばらなきゃ、すぐに空に吸い込まれてしまうわ。それから客席の見え方も、雰囲気の感じ方も変わってくるの。ねぇ、やってみない? 新しい稽古場が見つかるまで!」

マヤは懸命に言葉を重ねた。
そんなマヤの訴えになにか心に触れたのか、みなは押し黙ってしまう。
すかさず桜小路が声を上げた。

「マヤちゃんの言うとおりだ! 公園に行こう!」

すぐに、しょうがないなと一人が動き、それにつられて各々が荷物を手にして、マヤの示した公園へ移動し始めた。

「ありがとう。桜小路君……」
「お礼なんかいいよ。僕達仲間だろう?」
「うん。紅天女、こんなことであきらめたくないものね……!」

マヤは桜小路がぼぅっと見とれるほど愛らしい笑みを見せた。



その夕方、マヤ達のいる公園に水城が現れた。
稽古を眺めていたが、気づいたスタッフがマヤを呼び出す。
マヤは子犬のように、水城に駆け寄った。

「よくここがわかりましたね」
「様子を観に行ってくれって、真澄様に頼まれてね。キッドスタジオがああなってて、びっくりしたけど。公園でおかしな連中が騒いでるって、ご近所が迷惑してるわよ」
「え~、そうなんですか~。困ったなあ」

のんきな口調でマヤはこぼした。

「稽古場の件は聞いたわ。難しいけど、今週中には代わりになる場所を提供するわ」
「ありがとうございます。水城さん」
「いいえ」

水城はにこりともせずに口にした。

「水城さん……。なんかありました?」

マヤは不思議そうに水城を見上げる。
意外に勘が鋭いマヤに、水城は苦笑した。

そうね。
マヤちゃんは知らないだろうけど、大都はいま創業以来の危機だわ。
なにせ鷹宮から業務提携の白紙撤回を突きつけられ、メインバンクの首都第一銀行は大都グループ内の大口融資の引き上げを決定したわ。
そうそう。首都第一銀行ってキッドスタジオの抵当権を握っているけど、今日の騒ぎは偶然じゃないわけよ。
それで大都芸能関係では、中央テレビ系列で制作した番組にブッキングしていたうちの俳優やタレントのキャンセルが次々と連絡されてきて、週刊誌に自粛を求めていたネタは今週号で明るみになることになるし、警視庁も目を光らせてるヤバい案件もあったりして、私は方々に走り回ってなんとか事態の収集をお願いしてるの。
なんで私かというと、社長の真澄様は会長に呼び出されているから。
理由は紫織様との件を、鷹宮が速水一族にリークしたわけよ。
これを機に大都グループの経営を乗っ取りたい速水の親族は真澄様の責任を追求し、即時の辞任、挙げ句に養子縁組み解消を働きかけていて、今この時は義理の親子対決の真っ只中というわけなの。
真澄様はあなたに心配かけたくないみたいだけどね、と水城は胸の内でグチった。

「あっ。見て、水城さん。一番星!」

唐突に、マヤは空の一点を指した。

「えっ? どこ?」

つられて水城もそちらを見る。
こんな所で天体観測なんて、現実逃避している場合ではないのに。

「ほら、あそこ」
「本当ね」
「なんて星なんだろう。速水さんなら知ってるかなあ……」

水城は微笑ましく思った。
マヤにとって真澄は、星にロマンを馳せる恋人なのだろう。
そして確かにそれが、真澄の本質なのだ。

マヤは台風の目だ。
彼女はなにも変わらない。
変わるのは周囲で、自分も巻き込まれた一人にすぎない。

「じゃあね、私はもう行くわ。稽古がんばってね。あなたは、あなたのやれることを、しっかりやってちょうだいね」
「はい。水城さん……!」

水城はきびすを返すと、公園のゲートへ向かった。
さっきから盛んにジャケットに納めた携帯がうるさく鳴っている。
今日はまだ、仕事はこれからなのだ。



2011/04/11(月)
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