written by みちこ
illustrated by マコ



「マヤちゃん」

真澄を見送るマヤの背後から、桜小路は躊躇いがちに声を掛けた。しかしマヤの耳には届かないのか、マヤはひたすら真澄の後ろ姿を見つめ続けていた。
真澄は数十メートル離れた場所に停車していた鷹宮家の車に紫織を運び込むと反対側に回り込み、惜しむような視線を一瞬マヤに送った後、そのままするりと後部座席に乗り込んだ。
運転手によって閉められたドアの音が低く響いた時、桜小路はもう一度マヤに声を掛けた。そして手にしたヘルメットを差し出すと、マヤはようやく振り返り、コクンとうなずいてヘルメットを受け取ったが、またすぐ視線を戻し、走り去る車を少し寂しげな表情で見送っていた。
やがてエンジン音が遠ざかり、車の姿も完全に見えなくなると、マヤは小さく息を吐き出してようやく桜小路と向かい合ったが、渡されたヘルメットをじっと見つめたあと、申し訳なさそうにそれを返しながら言った。

「桜小路くん、せっかく迎えに来てくれたのに、ごめんなさい。やっぱり、あたし……ひとりで帰ろうと思う」
「え? どうして……」
「あの、今日はほら、あたし、スカートだし……」
「マヤちゃん……」
「ごめんね。で、あの……今日の稽古は、どうなっているのかな?」

話し方は普段とさほど変わらないが、自分となかなか目を合わせようとしないマヤは、明らかに今自分とは一緒にいたくないのだと桜小路は感じた。先ほど耳にした三人の会話、特に真澄の言葉に桜小路は大きな衝撃を受けていたが、さらにマヤのこの様子……。
マヤの口から決定的な言葉は出ていない。しかし、タラップを降りてきた時のふたりの様子、速水の傍に立ち必死で紫織に訴える姿。いやでもひとつの答えが見えてくる。到底信じられるものでは……いや、今も絶対に信じたくないことだが。

「わかったよ」

桜小路はヘルメットを受け取りながら言った。

「君に聞きたいことはたくさんある。でも……今の僕にはたぶん、その話を受け入れるだけの余裕がない」
「桜小路くん……」

ようやくマヤが桜小路を見た。しかし今度は桜小路の方が視線を外すと苦しげな表情を見せて言った。

「今日の稽古は午後からだ。昨日の夕方と今日の午前中に君の出番以外のところをみっちりやるから、午後は阿古夜と一真の場面を集中して稽古すると黒沼先生が言ってた。一時からだから、遅れないで来て」
「……わかったわ。ちゃんと行くから心配しないで」

桜小路にはまだ何か言いたそうな様子がうかがえたが、結局何も言わずマヤに背を向けるとバイクにまたがって去っていった。

何度も聴いているはずの桜小路のバイクの音が、今日のマヤの心には少しだけ痛かった。

マヤはひとり帰途についた。
一歩足を進めるたびに潮の香りが薄れていく。真澄と過ごした大切な一夜までが消えてなくなりそうで、マヤは何度も何度も振り返り、真澄の声を、言葉を、肌のぬくもりを、そして……愛をつなぎ止めた。


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「ご心配をおかけしました」

マヤは黒沼に向かって頭を下げた。

「まったく……しょうがねえなぁ、お前は。で、きっちり話はつけてきたのか?」
「あの、小切手はお返ししたんですけど……」
「『けど』? なんだ、どうかしたのか?」
「それが……」

マヤがなんと言って説明しようかと迷っていると、後ろから遮るように桜小路が声を掛けた。

「先生、その話はまたあとでいいじゃないですか。時間ももったいないし、早く稽古しましょう」
「ん、まあ、そうだな。向こうが小切手を受け取ったなら問題はないしな。よし、じゃあ始めるぞ。薬草を摘む阿古夜とそれを見つめる一真だ」
「はい!」


『なにをみているのじゃ? おまえさま』
『そなただ阿古夜』
『いつもいつもみているのじゃな わたしを』
『いつもいつもみていたいのだ 阿古夜』

『信じられぬ……お前のように美しい娘がこのわしを好いてくれるなど……夢のようじゃ』
『どうしてそのようなことを……それともおまえさまは阿古夜が思うほどには私を思うてはくださらぬのか?』
『なにをいう阿古夜 そんなことがあるものか』

『捨ててくだされ名前も過去も 阿古夜だけのものになってくだされ めぐりあい 生きてここにいる それだけでよいではありませぬか』
『名前も過去もお前ほどには大事でない それくらいならなにもかも忘れていよう』


マヤは演じた。今朝真澄を相手に演じたあの時のことを思い出しながら。以前は上手くできなかった一真との恋の演技。真澄のことを叶わぬ相手と思ってた頃は愛し愛される喜びなどわからなかった。台詞をしゃべっていても哀しい涙があふれてくるだけだった。でも、今なら。
たとえこの先いくつもの困難が待ち受けていても、心から信じ、愛することのできる“魂のかたわれ”という存在とめぐりあえた今ならば……。

「ふ……うむ」

黒沼はそんなマヤの変化を敏感に感じ取っていた。


『杉のおじじからは薬草のことをたんと教えてもろうた。みつからん草があるときは鳥にたのんで探してもろうた』
『なんと……そなたは鳥とも話すか』

『自然のものと話ができるのか まこと不思議な女子じゃの』
『気味が悪いか おまえさま』
『いや、驚いているだけじゃ 何があっても阿古夜は阿古夜じゃ いとしさにかわりはない』
『おまえさま……』



「それまで……!」

黒沼がパンッと手を叩き演技を止めた。マヤと桜小路が体勢を戻して黒沼の指示を待つ。
黒沼は丸めた台本で自分の頭をポンポンと叩きながらふたりのそばまでやってくると、しばらく空を見つめ何か考え事をしているような様子でじっとしていたが、やがて大きく息をついたあとに口を開いた。

「……まったく……困ったもんだな」
「先生……?」
「何があった? お前ら」
「えっ?」
「え? じゃねえんだよ、まったく……。よれよれだった北島が何とか持ち直したかと思ったらいきなり大化けしやがって。ところが今度は桜小路がぐたぐただ。お前たち、一体いつになったら舞台の上で“魂のかたわれ”になるんだ?」
「先生……」

唇を噛み締め黒沼の言葉を聞いていた桜小路だったが、一歩前へ進み出て言った。

「先生、すみません。ちょっと外で頭を冷やしてきます」
「ん?」
「桜小路くん……」
「ごめん、マヤちゃん」

そう言うと、桜小路は黒沼の許可も待たず稽古場を飛び出して行った。それを見送った黒沼はマヤの方へ向き直り「よし。じゃあ、まあとにかく座れ」とマヤを促して床の上にどっかりと座ると「北島、一体昨日何があったんだ。全部話してみろ」とマヤに有無を言わせぬ口調で問いただした。マヤはうろたえたが、やがて決心したように黒沼の目を真正面から見つめると「実は……」と昨夜からの出来事を最初から話し始めた。


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「なんてこった……」

全てを聞き終えた黒沼は惚けたような顔をしてマヤの顔を見つめた。マヤはその視線に耐えきれずもじもじとうつむいていたが、「なあ、北島」と呼びかけられた時、その声音に厳しさを感じ取り、ハッとして顔を上げた。

「今の話ではっきりした。さっきの桜小路は以前のお前と同じなんだな。失恋直後の精神状態で幸せな恋人役は演じられない、というわけだ」
「先生……」
「だがな、さっきのお前の演技を見ているとそれだけじゃないな」
「えっ?」
「お前は北島マヤのままなんだ。阿古夜になってない。お前は確かに“感覚の再現”ってヤツで演じたつもりだったんだろう。だが、さっきのは阿古夜が一真に対して言った言葉じゃない。あれは北島マヤが阿古夜の言葉を借りて速水真澄に言いたいことを桜小路に言ったというだけだった」
「あ……」
「だから桜小路には耐えられなかったんだよ。……北島」
「はい」
「“感覚の再現”に頼りすぎるな。前にも言ったが想像力を働かせろ。人殺しの役が来た時お前は本当に人を殺すのか? 経験しないと演じられないなんて甘えるな。もちろん経験は大事だが、その経験を元にもっともっといろんな感情を膨らませて想像力を養うんだ。いいか、経験と想像力、どちらが欠けてもダメなんだぞ」
「先生……」
「阿古夜として一真に向き合え、北島。演じるんだ。おまえが阿古夜として愛を囁くのは速水の若ダンナでも桜小路でもない。桜小路が演じる一真だ」
「……はい。先生、すみません」

阿古夜になったつもりが、北島マヤとしての喜びが強く表れてしまったらしい。真澄との関係は今始まったばかりでまだまだ不安定だ。浮かれたつもりなどなく、それどころか不安な気持ちの方が勝っていると思っていた。それなのに……。
マヤは、気持ちが通じ合ったというだけで無意識に有頂天になっていたのかと、そしてそんな自分の演技を桜小路がどのように感じとったかを考えると、穴があったら入りたい気分だった。

「でもまあ……」

黒沼の声がまた変わった。

「……よかったな、北島」

優しい言葉と声にマヤが顔を上げると、黒沼は細い目をますます細くして、いたわるような眼差しでマヤを見ていた。

「若ダンナが相手じゃ、お前も相当苦しんだんだろうしな。まあ、この先だって正直すんなりコトが進むとも思えんし、まだまだ楽しいだけの恋人ってわけにはいかないだろう。だがな、本当に若ダンナが好きなら何があっても信じきることだな」
「先生……」

マヤの瞳から涙が一筋こぼれた。それを見た黒沼は照れたように横を向くと「さぁて、桜小路のヤツにも気合いを入れんとな」と言って立ち上がった。


ライン2



「桜小路くん」

白い雲がゆっくりと流れ、少しずつその形を変えていく様を稽古場の裏手で壁にもたれながらぼんやりと眺めていた桜小路は、建物の横手から聞こえた自分の名を呼ぶ声に、ハッとして体勢を立て直し、目を向けた。

「マヤちゃん……」

マヤが微かに泣き笑いのような顔を見せて近づいてきた。
港で見せた、気まずそうに目を逸らすような様子は今のマヤにはもうなかった。

「さっきはごめんなさい。今、黒沼先生にしっかりダメ出しされちゃった……」
「え? どうして……。演技できなかったのは僕の方なのに」
「さっきのあたしの演技は阿古夜じゃなく、北島マヤだったって……」

苦笑しながらそう答えるマヤに、桜小路は訳がわからないというような表情で何も言えずにいると、マヤは思い切ったように桜小路に向かって言った。

「桜小路くん、聞いてもらいたいことがあるんだけど、今、いいかな?」

桜小路にはマヤの口調でその話の中身に大方の見当がついてしまった。

「聞いてもらいたいこと……か。いや、いいよ」
「えっ?」
「わかってる。紫のバラの人は……速水社長だったんだね」

桜小路からの思いがけないひとことに大きく目を見開いたマヤだったが、その後全てを察した様子の桜小路に、複雑な思いを抱えながらもマヤははっきりと答えた。

「……うん」
「やっぱりそうか……。港で社長とマヤちゃんを見た時、何か違和感があったんだ。ついこの間までは確かにマヤちゃんは速水社長を憎んでて、紅天女のこともあって犬猿の仲だと思っていたのに、タラップを降りてくるふたりの姿は遠くから見ても全くそんな雰囲気がなかった。むしろ……。そしてその後の紫織さんとのやり取りで速水社長があんな風に……。それでもその時はまだ混乱しててよくわからなかったけど、マヤちゃんのさっきの演技を見て、今ここでひとりになって考えていたら……全て、わかってしまったよ」
「ごめん、なさい……」

ひとことぽつりと言ってうなだれるマヤを見て、桜小路はフッと笑みを漏らした。

「ばかだなぁ、マヤちゃんが僕に謝る必要なんてないじゃないか。別に僕たち、付き合っていたわけでもないんだしさ。僕が一方的に好きになってただけなんだから」
「でもあたし、前に桜小路くんに『待ってて』って……」
「うん。……でもさ、仕方ないよね。マヤちゃんのことだから、社長のことを好きになった時には紫織さんがいたとかで、諦めようとしていたんだろ? あの頃、本当に辛そうだったもの」

図星をつかれたマヤがうなずくのを、桜小路は苦笑しながら見つめていたが、ふと真顔に戻ると「ひとつだけ、教えて」と言った。

「マヤちゃんは速水社長が紫のバラの人だから好きになったの?」

桜小路の質問にマヤは、遠い過去を振り返るような表情でしばらくじっと考えていたが、やがてゆっくりと首を振って答えた。

「ううん。はっきり好きだと自覚したのは紫のバラの人だとわかってからだけど、その前から時々速水さんに対して憎しみだけじゃない感情を抱いてたと思う。必死で「違う、あの人は母さんの仇なんだから」って思い込もうとしていたけど。そして……速水さんがお見合いしたと聞かされた時、それまで「大っキライ」とか、時には「死んじゃえ」とまで思ってた人なのに、速水さんが結婚してしまうかもと思っただけでなんとなく気持ちが落ち着かなくなって、イライラして八つ当たりしたりして……」
「そうだったのか……。マヤちゃんと速水社長はさ、悔しいけどやっぱり“魂のかたわれ”なんだろうな」
「え?」
「以前、僕が『もし“魂のかたわれ”と思える人にめぐりあえたら……』って言ったらマヤちゃんは『もしそんなひとに出会ったらきっと今までの自分がどんなに孤独だったか気づく』って言ったよね」
「う、うん……」
「それより早い時期に、速水社長ともそんな話をしたんだ」
「速水さんと?」
「まるっきりマヤちゃんと同じこと言ってたよ。『ひとはそれまで自分がどんなに孤独だったか気づくに違いない』ってね。だからマヤちゃんの言葉を聞いた時、僕は心底驚いた」
「速水さんが、そんなことを……」
「ああ。今回の事だって、本当なら紫織さんが乗るはずだった船なのに、結局はマヤちゃんが乗った。婚約者がいようが、対立する立場であろうが関係ないんだな、って思い知ったよ。どんな障害があっても惹かれ合い、求め合ってしまうんだなって……」
「桜小路くん……」
「そんな相手にめぐりあえたマヤちゃんと社長が少し、うらやましいよ。僕にはいるんだろうか、そんな相手が……」

桜小路は天を仰いでしばらくの間、じっとたたずんでいた。
やがて、もう一度マヤの方に向き直ると、少しだけふっ切れたような顔をして言った。

「でも、舞台の上では僕が君の“魂のかたわれ”だ。そのことは、忘れないで」
「……うん」
「じゃあ、戻ろうか」
「あ、ちょっと待って」
「え?」
「あの、これ……」
「それは……」

マヤがポケットから取り出したもの、それは以前桜小路からプレゼントされたイルカのペンダントだった。

「一旦アパートに戻った時に、持って来たの。このイルカ、本物のペアにしてあげられなくて……ごめんなさい」

桜小路は湧き上がるつらさにじっと耐えるような表情でマヤが差し出したイルカのペンダントを見つめていたが、やがて大きく息を吐き出すと「いや……いいんだ」と言って受け取った。そしてそのままジーンズのポケットにしまうと稽古場に向かって歩き出した。


ライン2



Forever-2-

その日の夜。
桜小路は再び港に来ていた。

転落防止の縁石を超え、身動きもせずに暗い夜の海を眺めていた。

どれくらいの時間、そうやって過ごしたのか……。

やがて、ようやく気が済んだのか、おもむろにジーンズのポケットに手を入れると、そこからあのイルカのペンダントをふたつ、取り出した。
そしてふたつのペンダントの鎖をしっかり結ぶと、手のひらの中で向かい合う小さなイルカを見つめ、一度ぎゅっと握りしめてから海に向かって思い切り投げた。

水面に当たった音が微かに耳に届くと桜小路は「せめてお前たちだけは一生離れる事なく海の底でしあわせに暮らしてくれよ……」とつぶやき、停めたバイクの方へと歩いて行った。





2011/02/21(月)
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