written by みくう
illustrated by マコ



ちかづいてくる埠頭。デッキで二人、同じ風景を眺めている。以前なら望むべくもなかった穏やかで優しい時間。それらが間違いなく終わりに近づいていることを、マヤは感じないわけにはいかなかった。

「もう……」
「うん?」

ゆっくりとマヤを見下ろすその視線は、包み込むようにあたたかい。夢から覚めてしまうのが怖い。陸にあがれば、真澄とマヤの距離はまた離れていく。
やはり二人の住む世界は違いすぎる。そのうえ真澄にはあんな美しい婚約者がいる。唐突に沸き上がってきた切なさに、マヤは泣きたくなるを堪えて微笑んだ。

「もう終わっちゃうんですね。なんだか夢から醒めちゃうみたいな気分」

そういって微笑むマヤを、真澄は目を細めて見つめたあと、ゆっくりと口を開いた。

「君は夢で終わらせるつもりなのか?」
「え……?」

見上げた真澄の表情はひどく真剣なものだった。

「俺は……夢で終わらせるつもりはない」

マヤは言葉を失う。ありえないと思い込んでいた運命の扉が開き始めたことを感じて、マヤは微かに震える。


「ずっとずっと自分の気持ちや感情を封じ込めて生きてきた。けれどこうして君と過ごしたら、それは死んでいるのも同じだということが、はっきりとわかった」

一心に見上げるマヤに真澄は微笑んでみせた。強い意思を感じさせる瞳。

「これから自分に正直に生きたい。たとえどんな困難が待ち受けているにしても」
「速水さん?」
「知ってのとおり、俺には婚約者がいる。そんな立場の男が君にこんなことを言ってはいけないということはよくわかっている。けれどひとつだけ、言わせてほしい」

マヤが両手を口にあてる。震えるが止まらなくなる。

「俺がずっと愛してきたのは君だ。出会った頃から君だけを愛してきた。これだけは信じて欲しい」

眩暈がするほどの幸福感。マヤの瞳には抑え切れないほどの涙が溢れてきた。そんなマヤをみて真澄は照れたように微笑んだ。見慣れた社長然としたクールなものではなく、まるでティーンエイジャーがはにかむような笑顔。その指先で、マヤの涙をそっとぬぐった。
汽笛が鳴る。クルージングはもう終わる。二人だけの時間を、つなぎ止めるように真澄はマヤをまっすぐにみつめ続けた。

「さっき話をした伊豆の別荘で、また会いたい。君に……話したいことがたくさんあるんだ」

マヤも頬を赤く染めながら、しっかりと頷く。真澄の気持ちが、想いが、溢れんばかりにマヤの中に流れ込んでくる。
船はゆっくりと接岸した。タラップへ大勢の客が向かうざわめきの中、マヤも真澄もお互いのことしか見えない。ただ見つめ合う。

そのときだった。

「速水様」

真澄が振り返ると、ホテルディレクターと最初に挨拶を受けた正木が立っていた。

「昨夜は鍵をなくされたことで、部屋をほとんどお使いになられなかったと係の者より聞きました。朝まで私共も気づきませんで、大変ご不便をおかけしたこと、心よりお詫び申し上げます」

正木が深々と頭を下げると、真澄はゆっくりと首を振った。

「いや、こちらのミスだからそちらに非はありません。迷惑をかけました」

VIPである真澄のクレームは避けたい。そんな心のうちが透けてみえるように、正木は明らかにホッとした表情を浮かべた。

「恐れ入ります。このたびは紫織様がご乗船できないなどトラブル続きでしたが、次の機会こそ快適な旅をお約束いたしますので、どうぞまたご利用いただけますようお願いいたします。それから先程連絡がございまして、紫織様がタラップ下でお待ちだそうです」

マヤの肩がぴくりと動く。その様子を視線のはしで捉らえながら、真澄は低く答えた。

「わかりました。ありがとう」

正木が再度丁寧に頭を下げて去ったあと。真澄は小さくため息をついた。

「速水さん」

真澄が視線を落とすと、泣き笑いのような笑みを浮かべたマヤが見上げていた。

「速水さん、先に降りてください。あたしは……あとで降りますから」

健気に微笑むマヤを真澄は愛おしげにじっと見た。それからそっと口許を緩めた。

「一緒に降りよう」
「だって! そんなことをしたら紫織さんが……」

必死でそう言い募るマヤの言葉に首を振った。

「いいんだ」

まっすぐなその瞳に、マヤの胸がきゅっと締めつけられる。

「行こう、マヤ」

マヤ。そう呼びかける声の甘さに、思わず目を閉じる。
多分これから、間違いなく真澄とマヤを引き裂こうとする力が働くだろう。けれどたとえ引き裂かれたとしても、やはり自分はこの人を愛し続けてしまうだろうと感じた。マヤも決意する。これが自分の運命なのだと。

二人でタラップを降りだしてすぐ、焼けるような視線を感じてマヤははっとなった。
紫織だった。青ざめたその顔色に反して、その瞳は燃えるように鋭い光を放っていた。そのアンバランスさはぞっとするほどで、マヤは思わずごくりと唾を飲み込んだ。
隣にいる真澄はまったく動じる様子がない。それどころか、先程までの情熱的な表情をいつのまにか消し去って、いつも以上にクールにみえる。

タラップをおりきると、紫織がゆっくりと二人の前に歩いてきた。

「真澄様……」

紫織の声は微かに震えていた。そんな紫織に真澄は一呼吸おいたあと、口を開いた。

「あなたからのご招待には驚かされました。なにも聞かされず、車で連れてこられたらいきなり波止場で、船に乗るというのですからね」

冷ややかな笑みを浮かべてそういう真澄は、マヤからみてもかなり他人行儀な様子だ。唇を噛みしめていた紫織は、弾かれたように声をあげた。

「どうしてマヤさんと一緒にいらっしゃるんです?」

取り乱すまい。そんな意志が強すぎて、かえって平板になってしまったような口調だった。真澄は微塵も動揺することなく、ゆっくりと内ポケットをさぐった。

「あなたに会いにきたそうです。これを返したいと」

そこから取り出したのは、半分に千切れた鷹宮名義の一千万円の小切手だった。紫織は大きく瞳を見開いた。

「あなたを船の上で探しているうちに、出港してしまったそうです。この娘らしいですね」

ことさら軽い調子でそういったのに、愛おしさが微かに含まれていることを、紫織は動揺しながらも感じとったに違いない。苦しげに顔をゆがめた。

「そんなことがあるなんて……」
「なぜこんなものを彼女に渡したのですか?」

狼狽する紫織に、間髪いれずに真澄が訊ねた。
口ぶりはとても丁寧だったけれど、明らかに非難めいた感情が混じっていた。その言葉に反応した紫織が真澄の背後にいるマヤを睨む。その視線の鋭さにマヤは思わず身を竦めた。

「あなたとわたくしとの未来のためですわ」

マヤから視線を移した紫織はすがるように真澄をみた。

「真澄様もご覧になったでしょう? なくなったはずの婚約指輪はマヤさんが持っていて、ウェディングドレスも汚されて。明らかにマヤさんは……、あなたを、そしてあなたと一緒になるわたくしをも恨んでいるのです。それなのにあなたは、そんなマヤさんを暴漢から庇って、怪我をされて……。この方がそばにいると、真澄様にとってよからぬことがいつも起きます。ですからわたくしは……できるだけあなたから、この方を遠ざけたかったんです」

たまらずマヤが叫んだ。

「違います! あたしもう、速水さんを恨んでなんかいませんし、婚約指輪もウェデングドレスの件も誤解なんです!」
「あなたは黙っていて頂戴!」

紫織の驚くほど強い怒りを帯びた声にマヤは口を閉ざした。ぴん、と張り詰めた空気の中、真澄が大きくため息をついて、顔をあげた。

「あのときは動転してこの娘を怒鳴ってしまいましたが、よくよく考えてみれば、この娘があんなことを企むような人間ではないことは、私が一番よく知っています。演劇だけをひたすら、まっすぐにやってきた娘なんですから。おそらく、なんらかの行き違いがあったのでしょう」
「真澄様! 何をおっしゃるの? マヤさんに騙されているのですわ! だって……」
「紫織さん!」

真澄が強く遮ると、紫織は口をつぐんだ。

「この娘が中学生のときからみてきたんです。あなたよりも、私のほうがマヤのことはわかっています」

マヤとはっきりと呼び庇ってくれる真澄に、痺れるような喜びを覚えた。けれど手にもっていたハンカチを握り締めて、わなわなと震えだした紫織をみると、どうしていいかわからないような、不安な気持ちも一緒にせりあがってくる。
紫織はしばらく唇を噛みしめていたけれど、ゆっくりと顔をあげた。その表情は何かに憑かれたように、面変わりしていた。般若が浮かべたようなその微笑に、マヤは背中がぞくりと震えた。

「……お二人で船でお過ごしになって……、マヤさんに丸めこまれてしまったんですわね。さすが紅天女をめざす天才女優でいらっしゃるわ」
「そ、そんな! 違います! あたしはそんな……」
「真澄様、目を覚ましてください。ああ、でも、わたくしがいけなかったんですわね。船の出港時間に遅れたりするから。さあもう参りましょう。今日はこれから、わたくしの家でお茶でも……」

マヤが声をあげようとしたときに、真澄が制した。

「紫織さん、そうではありません」

低いけれど芯の通った真澄の声に、紫織がびくりと震えた。

「自分の気持ちにもう逆うことはできない、私自身が強くそう感じたのです」

紫織が呆気にとられたように真澄の顔を見た。ほんとうに、意外なことを言っている、とでもいうかのように。そしてひきつった笑みを浮かべた。

「たとえあなたがずっと以前から、この方に心を奪われていたとしても、そんなことはたいした問題ではありませんわ。あなたはわたくしと結婚しなくてはいけないんです」

いつのまにか、紫織の瞳からは涙が溢れていた。

「目をお覚ましになって! 真澄様ともあろう方が、そんなささいな感情に振り回されるなんて。あなたには、あなたの生きる場所があるんです。この方の住んでいる世界とは別の場所なんです!」

紫織のすすりなく声が響く。船から下船した客もいなくなり、タラップの下には三人しかいない。しばらくしてから口火を切ったのは真澄だった。

「おかしいですね。今、紫織さんがおっしゃったことは、昨日この船に乗る前までずっと自分に言い聞かせてきたことです。この娘と私の生きる世界は違う、永遠に重なりあうことなどないだろう、とね。
それが昨夜船に乗ったら、この娘がいて。……あなたが用意してくれた部屋には泊まりませんでしたよ。一晩中、二人で船内のロビーにいました。ただ沢山話をして、デッキで朝日をみて……そして彼女に、紅天女の演技を見せてもらいました。

皮肉なことです。今までこの娘から必死で、遠ざかろうともがいていたのに。それがいかに愚かなことなのか、昨晩はっきりと悟りました。自分の不甲斐なさゆえに自分の気持ちを偽ったまま、あなたと婚約したことは、本当に申し訳ない、心からそう思っています」

紫織の表情は、酸素不足の人のように一気に歪んだ。

「…いや。……いやです! もうやめてください!! やめて!!!」

いきなりそう叫ぶと、ふっと電池が切れた人形のように体がガクリと震えた。

「紫織さん!」

真澄とマヤの声が重なる。紫織の体が倒れる直前、真澄があわてて手を伸ばして紫織を抱えた。真っ青なその顔は、紫織が尋常ではない状態にあることを明らかに示していた。
鷹宮の運転手も慌てて駆け寄ってくる。Forever-1-

「紫織さんが倒れた。車まで運ぶから手伝ってくれ」

真澄が運転手に声をかけ歩き出したそのときだった。マヤの肩に手が置かれた。
吃驚して振り返ると、ひどく苦しげな表情を浮かべた桜小路が、背後に立っていた。

「桜小路くん!? どうしてここに?」
「黒沼先生に教えてもらって迎えにきたんだ。そうしたら、ここでマヤちゃんたちの話を聞いてしまって……。とりあえずマヤちゃんは僕と帰ったほうがいい」

紫織を抱きかかえていた真澄が振り返った。
桜小路をみて一瞬、眉を寄せる。そのあとゆっくりとマヤに視線を移す。
絡み合う視線。

また真澄とマヤの距離が離れていこうとしていた。
喉がヒリヒリする。胸がひどく痛い。

けれど。真澄はマヤの目をみて頷いた。しっかりとした様子で。

そうだった、とマヤは改めて思う。
もうこれまでの二人ではない。

真澄は言ってくれたのだ。
マヤをずっと愛してきたのだと。

マヤも頷き返す。
真澄が微かに微笑んで、紫織を抱えたまま歩き出した。
その後姿が遠ざかっていくのを、マヤはしばらくぼんやりと見つめていた。
 


                                        
2011/02/20(日)
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