written by キリエ
真澄の行きつけのスカイラウンジがあるRホテルは複合商業施設の中に入っていた。
各施設をつなぐ役割もある地下駐車場は入り組んだ造りになっており、真澄は自分のメルセデスをRホテルのブロックに停めると、そこから徒歩でムービックシアターの入っているT棟のブロックに移動した。
都内最新の設備をほこる映画館のレイトショーがこれから楽しめる時間帯となり、他のブロックは空いているのに、ここはほどよく埋まっている。
真澄はエレベータホールから少し離れた場所で、壁面に向かって頭から突っ込んである国産車に近づいた。
周囲に目を配りながら、人通りが途絶えたほんのちょっとした隙に、スモークの張ってある後部座席に乗り込む。
運転席には人がいた。
サングラスをかけた男は黙ったまま、真澄に書類挟みを差し出した。
真澄が婚約したころから定期的に続けてる鷹宮一族の身辺報告が記載されたそれを、真澄がすばやく捲っていく傍で、彼は欄外に書けなかったことをいくつか口にする。
「わかった。このまま調査を続けてくれ、聖……」
労をねぎらうと、聖の全身から緊張がわずかに解かれた。
「しかし急ですね。こんなところで待ち合わせるのも……」
「今日の本題は、これじゃないんだ」
真澄はしばらく人差し指の先で、こつこつと書類挟みの表紙を叩いた。
きっかけがあったとはいえ水城には話せて、聖に話さないわけにはいかない。
しかし初恋の相手を告白するような気恥ずかしさに、真澄は逡巡した。
その様子をうかがっていた聖が、不意に訊ねる。
「あなたの名を騙った者がいることでしょうか?」
「えっ……」
「正確には、紫のバラの人を騙った……」
「どういうことだ、聖!?」
「マヤ様の元に、びりびりに引き裂かれた舞台写真のアルバムが届いていたのです。絶縁状と一緒に。昨日、雑誌の取材と称してキッドスタジオで聞き込みをした際に、つかんだ情報なのですが……」
瞬時に真澄は悟った。
マヤの引き裂かれた舞台写真とは、水城が拾った紫織の車に落ちてたものも、稽古場に送りつけられたものも、出所は同じだ。
自分の別荘の本棚にしまってある、彼の宝物。
それに手をつけた人物は、ひとりしか思い浮かばない。
そういえば、彼女は今朝、波止場で奇妙なことを言っていた。
「たとえ、あなたがずっと以前から、この方に心を奪われていたとしても……」
いつ彼女は紫のバラの下の自分の想いを知ったのだろう。
自分は完璧な婚約者だったはずなのに……。
「真澄様、お顔の色がすぐれませんが……。なにか、お心当たりがあるのですね?」
「マヤは、なんと言っていた?」
「……信じている、と。私に直接なぜこんなひどいことをされたのか訊ねるどころか、変わったことはなにもないと大事なファンに伝えてほしい、そうおっしゃっていました」
信じている。
マヤの心に、真澄は言葉を失った。
紫のバラの人から偽りとはいえ、裏切りのようなひどい目にあったのに、それでも信じられるなんて。
しばらく顔を赤らめたままうつむいていた真澄だったが、やっと顔を上げると、聖をまっすぐ見た。
「頼みがある」
「なんなりと」
「今すぐ伊豆にある俺の別荘に行ってくれ。確かめてほしいことがある」
真澄は聖と別れると、Rホテルのスカイラウンジへ上がった。
イルミネーションは今夜もすばらしかったが、真澄がこのラウンジが好きなのは、照明が極力絞られているので、都会でも夜空で輝く星を見つけやすいというところだった。
長らく彼の片想いの橋渡しをしてくれた部下と、いつかここで祝杯を上げれたらこの上ないが、それは闇の男の事情で許されない。
昨夜のナイトクルーズでの一連の流れも含め、マヤとの仲の進展や鷹宮への婚約破棄の申し入れを知った聖は、意気込んで伊豆へ出発した。
到着は深夜を過ぎるだろう。
十中八九、別荘にあるはずのアルバムは盗まれていると思ったが、一応有無を確認しておきたかった。
マヤには、かわいそうなことをしてしまった。
舞台アルバムなんて、天才女優の成長の記録といっていい貴重なものだったのに。
それにしても、そんな大切なものを引き裂くなんて。
紫織には人の心に寄り添う力が欠けているのだろうか。
自身のアルバムがびりびりにされたら、どんな気分がするか、わからないのだろうか。
真澄はマヤにすまなかったと謝りたかった。
そして、信じていると言ってくれて、うれしかったとも伝えたかった。
マヤの携帯の番号とメルアドは船上で交換していた。
彼のジャケットには携帯電話が当然入っているから、話をしようと思えば、ここですぐにできる。
だが、しかし……、それには自分が紫のバラの人だと告白しなければいけない。
真澄には夢があった。
伊豆の別荘で彼女を迎えたとき、紫のバラの真実を告白できたら……、と。
そのためには婚約破棄の目処を早々につけなければならなかった。
明日の朝にでも、鷹宮の屋敷へ行こう。
真澄はロックグラスの中身を一気に飲み干した。
焼け付くような熱さが、彼の決意を煽った。
その夜のかなり遅く、聖から連絡が入った。
やはり、伊豆の別荘からは彼の宝物は紛失していた。

早朝の鷹宮邸で門前払いをくらうことは覚悟していたが、そんな真澄を招き入れたのは、なんと当人である紫織だった。
紫織はやつれた面影を残していたが、意外に声はしっかりしていた。
応接室に腰を落ち着けた二人に会話が始まったのは、紅茶が運ばれてからだった。
「お加減はいかがですか?」
「ええ……、昨日は一日伏せておりました。でも今日は、起き上がれるほどに大丈夫ですのよ。ご心配をおかけしました、真澄様」
他人行儀な挨拶を交わしつつ、真澄は頭の中でカードを切る手順を確認していた。
舞台写真のアルバムのことで猛烈に怒ってはいたが、なにより優先すべきは紫織に婚約破棄を受け入れさせることだ。
「ねぇ、真澄様。昨日はあんなことをおっしゃいましたけど、本当はお困りでなのでしょう? お祖父様はかんかんだわ。でも私がお願いすれば、きっと許してくださいます。一時の気の迷いだとわかってくださいます。さぁ、これからお祖父様のお部屋参りましょう」
そう来たか。
あくまでビジネスとして、自分との結婚を位置づけようとするのか。
真澄の中で紫織に対する幻滅が、ますます深まる。
「お祖父さんに話すべきことは、確かにありますね。たとえば、あなたは婚約者の別荘に無断で侵入し、彼の大切なものを盗んでいる」
紫織の表情に明らかな変化が見られた。
目が釣り上がり、頬はかすかに震えている。
「な、なんのことでしょう?」
「とぼけないでください。あなたが盗んだものはアルバムだ。ある娘の成長の証といっていい、足長おじさんのように彼女を見守ってくれた恩人に贈ったものだ。それをあなたはあろうことか、びりびりに引き裂き、恩人の名を騙って、大切な舞台を控えている彼女に送りつけた。絶縁状と共に……!」
「わたくし、知りませんわ……!」
「証拠はあります。ほら」
真澄はジャケットから写真の切れ端を取り出し、それを彼女の前に差し出した。
「僕の秘書が、あなたの乗っていた車の中で発見しました」
大きく肩を紫織は落とした。
「さすがですわ、真澄様。言い逃れできません」
「認めるのですね」
「わたくし、許せませんでしたの。あなたの心に、わたくし以外の女性がいることが……」
「なぜ、僕の気持ちに気づいたのです?」
「なぜって……。そんなことくらい女ならすぐにわかります……! 真澄様は、いつもわたくしに優しかった。けれど、その優しさにわたくしはいつも不安でしたの。あなたの本当の姿が見えなくて……!」
紫織は手元のハンカチを強くにぎりしめた。
「あのアルバムを最初、別荘で見つけたときは、なぜこんなものがここにあるのか、意味がわかりませんでした。あの娘はあなたに対して、非礼な態度ばかりとっていましたから。けれど、紫のバラの人の存在を知り、あの娘が舞台アルバムと卒業証書を贈ったことも聞きましたの。それで、あなたの別荘に行って確かめました。アルバムと一緒に卒業証書もありましたわ。それで、あなたが紫のバラの人だとわかりましたの……!」
紫織の目から大粒の涙が、ぽろぽろこぼれ出す。
「あなたが仮面を被って、あの娘を見守り続けたことに、わたくしがなにも感じないと思って? あなたのような人が、いえ、あなただからこそ、わたくしにはすぐわかりました。あなたはとても強く、あの娘を愛していると……! それがあなたの真実だと……!」
わっと紫織は突っ伏して、声を上げて泣いた。
圧倒されて、しばらくその様子を見ていた真澄だったが、搾り出すように声を出した。
「……あなたには、本当に申し訳ないことをしたと思っています。自分の心を偽って、婚約してしまった」
「真澄様、もうだめなのですか? 一度は、わたくしと結婚をお決めになったのでしょう?」
「すみません。彼女の気持ちを知った以上、もう自分に嘘はつけません……!」
「ひどい、ひどいわ。真澄様! わたくし達、婚約したのですよ。あんな盛大な婚約パーティだって開いたわ。お祖父様は大変喜ばれましたし、大勢の人が祝福してくれました。雑誌にだって載って、世間の人はみな知っていますわ。なのに結婚がだめになったなんて知られたら、わたくしもう表を歩けません!」
世間体なのか、と真澄は残念に思った。
確かに紫織のような蝶よ花よと大事にされてきた令嬢には、婚約破棄は人生で初めて経験する瑕なのだろう。
「ですが、紫織さん。あなたは偽りの愛で幸せになれると思っているのですか?」
うつむいていた紫織が、はっと顔を上げた。
「仮に結婚したとしても、それは形だけです。僕の心には一生あの娘の存在があるでしょう。あなたは、そんな結婚生活に耐えられますか?」
紫織は、ごくりとつばを飲み込む。
「紫織は……。あなたのお傍にいれたら、それだけで幸せです……!」
「そんなものは幸せではない……!」
思わず、真澄は声を荒げた。
「形だけ取り繕う虚しい人生なんて、僕はもうまっぴらだ! 愛する人に愛される幸せを実感したら、もうそれなしでは生きていけなくなる。僕にはあの娘が必要なんです。マヤしか愛せないんです……!」
「あの娘の名前なんて聞きたくありませんわ!」
紫織は射るような視線で真澄を見つめる。
「わたくし、あなたと絶対お別れいたしませんわ。どんなことをしてでも!」
真澄は口元をわずかに歪めた。
「紫織さん、それは愛ではない。執着だ」
「なんですって……!?」
「僕も不器用だが、あなたはそれ以上だ。あなたの愛には、思いやりも献身もない。僕はそんなものを愛だと受け入れられない。たとえマヤとのことがなくても、僕とあなたは合わなかった、そんな気がします」
「あの娘の名前を言わないでと、お願いしたでしょう!」
「僕の話を聞いてますか?」
「わかりません! わかりませんわ! あなたのおっしゃっていることが、わたくしにはわかりません!」
紫織の眼が震えていた。
今日は、もう限界かもしれない。
血の気が上がると、すぐ倒れる彼女とは対話は無理だろう。
「また、明日来ます。あなたが婚約破棄を受け入れてくれるまで通い続けますよ。今日のところは引き上げます」
「待って、真澄様!」
「ああ、そうだ。最後にひとつだけ。あなたのエンゲージリングを盗み、ウェディングドレスを汚したのは、本当は誰ですか?」
紫織の顔が蒼白になる。
「あなたも見ていたわ……。あの娘でしょうに……!」
「マヤは他人の大切なものを盗んだり、傷物にしたりしない。あなたのような人間ではない」
「わたくしを疑っているのですか?」
「あなたが仕組んだんじゃないでしょうか……!?」
紫織はすばやく手元にあったティーカップをつかむと、真澄に向かって中身をぶちまけた。
「わたくしだけが悪いのですの!? エンゲージリングにも、ウェディングドレスにも、真澄様の想いなんてこもってないくせに……!」
紅茶は時間が経っていたので冷めてはいた。
真澄はハンカチを取り出すと、額や頬をぬぐう。
そしてひとつ、ため息を吐いた。
「やはり、あなたの虚言だったんですね。僕としたことが、とんでもない女性と婚約してしまった」
ええ、あなたが悪いのではありません。
それはおそらく、あなたが病んでいるせいです。
真澄は、はっきりそう言いたいのをさすがに堪えた。
紫織を納得されるのは無理だ。
心の対話ができない。
真澄は寂しげなまなざしで紫織を見下ろした。
2011/02/22(火)
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